2008年10月11日 (土)

敵か!味方か!

そうだった。あの頃はみんなが敵だったんだ。

もう5~6年前のことだが、兄は離婚し地元である僕の実家のすぐ近くに住居を構え暮らしている。甥と姪を連れて帰ってきた。

甥は中学2年生で姪は中学1年生。思春期真っ只中だ。

ほんの1年前までは僕が実家に帰ると僕が占領するパソコンが置いてある部屋に入り浸り、僕の母に怒られるまで自分の家に帰らなかった2人だったが、今では僕が帰っても見向きもされない。

2人は僕のことが嫌いになった訳ではなく、たまにやってくる訪問者である僕との距離感がうまく掴めずにいるんだろうと思う。僕にもそんな時期があったからそうだと思う。

家族や身内に対して妙にシャイになり、言いたい事を素直に言えずに反発ばかりしてしまう時期だ。所謂、反抗期と言うものなのかも知れない。

甥のほうは今までに反発心と言うものをあまり見せることはなかった。今、現在も僕に近付いて来ようとはしないものの何かにつけて反発するようなことはない。僕に対して少しぶっきら棒になっただけに感じられ思春期の少年にはあって然るべきものだし、その態度に寂しい気持ちになりさえすれ、不快に感じることはない。本質はそんなに変わっていないように感じるのだ。

僕が同年代の頃はみんなが敵だった。仲の良い友達を除いた大人から子供まで全てが敵だった。近付いてくるものにはどんなものにも反発し、どんなものも否定した。自分が正しいか間違っているかではない。ただ、ただ反発した。自分と距離と縮めてこようとする人達は全てが敵だった。

そんな中にも例外である人達はいた。自分との距離をある程度保ってくれてそれでいて気に掛けてくれる存在。僕にとっての、その存在は父であり祖父であった。恐らく父や祖父も僕と同年代の頃に同じような感覚になったのではないだろうかと思う。そしてその時に自分が周りの人達に期待した態度を僕に対してとってくれたのではないだろうかと思う。

僕は周りを敵だらけにしてしまったが、父や祖父と一緒にいる時はぶっきら棒な態度をとりながらもどこか安心していた。周りの人達に煙たがられてもこの人達だけは僕のことを見捨てることはしないだろうと言う安心感があった。

やはり一人ぽっちになってしまうのは寂しい。父と祖父がいてくれて良かった。僕は一人ぽっちにならなくて済んで本当に良かった。

そう思った。

休日出勤の一人ぽっちのオフィスで。

ただでさえ広いオフィスに一人ぽっちで電気も付けずにポツンと一人ぽっちで仕事をしながらそう思った。

僕は甥から見れば完全に大人だろう。僕が距離を縮めようとすると、僕は甥にとっての敵になり得るかも知れない。僕は甥の敵にならないようにしようと思う。

そもそも僕は甥との距離は父のように近くないので調度良い距離感を取れるのではないだろうかと思っている。

そんなことを一人ぽっちのオフィスで仕事をしながら考えた。しつこいけど一人ぽっちで考えた。距離を縮めて、仕事を無茶振りしてくる上司もいない。理不尽なキレかたをする嫌な上司もいない。僕には敵がいない。オフィスには僕しかいない。

味方が欲しい・・・

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2008年9月15日 (月)

廻れお寿司

僕だってお寿司が食べたい!

そんな感じで給料が入ったばかりだってのを良いことにお寿司を食べに行くことにしたんですよ。僕だってたまにはラーメン以外のものを食べるために外食をしたいってなもんですよ。

僕は味覚やらがバカなので何を食べても美味しいと感じることができるのですが、お寿司だって食べたくなることもある。

廻る寿司が大好きなので、その日も行き着けの廻る寿司屋に行きましたよ。

そしてこの度は学んだことがある。お寿司を食べて逆にお金をもらえることがあるってことを。

「廻る寿司」とかって言いながらも結局は内側にいる板さんに注文する。目の前に廻っている寿司を取ったことなんてあまりない。どうやら廻るお寿司の人気はこの辺りにあるらしい。

僕らのような所得の低い階級の日本人はお寿司を高級な食べ物の代表として位置付けることが多い。

多くの廻る寿司屋では客に食べさせることが目的で寿司を廻している訳ではない。目の前に廻っているお寿司を取るのはもちろん自由なんだけど、わざわざ板前さんが目の前で握ってくれるのを食べることによって自分が上流階級に仲間入りしたかのような錯覚させることが狙いだ。そうすることによって食すことの満足感を与えると同時に、ブルジョワジーな気分を味わってもらうことを目的としている。そのことからも分るように、廻る寿司屋は味への満足度が高い店よりも精神的な満足度が高い店のほうがリピート率が高い。

だらだらと偉そうなことを書いたが全部僕が勝手に思っていることです。

その店はかなり大規模な「廻る」が設備されており店内には注文を聞くための店員がいたるところに配置されている。その日も思いつくままに注文した。

僕は余程の貧乏性らしく思いつくままに注文したはずなのに黄金色に輝く300円皿は一枚も注文していなかった。テーブルには、白い色で人をおちょくっているかのような魚の絵が書かれた皿ばかりが積み重ねられている。

1ターン目の注文の品をたいらげ2ターン目に突入。店内をうろつく店員の一人を捕まえ注文する。

イカが食いたい!ってことでイカ明太なる軍艦を頼むことにしたんですよ。店員は注文用紙にメモを取っています。そうしていると左の腕に鋭い痛みが走ったのです。

左腕を見ると半袖の袖の部分に青いインクが。明らかに店員が持っていたボールペンのインクから刻み付けられたであろう青い刻印が僕の左腕に記されている。

店員は僕に青い刻印を刻み付けたことを気付いた様子だったのですが、「何かありましたか?」と言った具合のすまし顔で僕の腕を見て店内業務に戻る。

ナニか?じゃあ、この店はアレか?100円の皿しか頼まない客には青い印をつけるってか?100円皿の刻印か?

もぅ、ねぇ。正直青いインクがついてることなんてどうでも良かったんですよ。100円皿の山の中に200円皿が数枚混ざっていることを声を大にして伝えたかったのですよ。「おれは本気出したら200円皿だって頼めるんだぞぉ」って。

2ターン目の注文の品が届く頃には僕の心は荒みきっていました。『そうさ。僕は給料が入ってたまにする外食、しかも寿司を食べにきたと言うのに100円皿しか頼めないほどの小さな人間さ。』そんなオーラがムンムンと出てたに違いない。

そうそう。さっき注文した「イカ明太」だって頼んだ覚えのない「梅クラゲ」に化けて出てきたけどそんな関係ない。なんせ僕は青い刻印を刻まれた100円皿の男なんだから。

失意の中、「イカ明太」ならぬ「梅クラゲ」を食していると先ほどの僕に青い刻印を刻み付けた店員が寄ってくる。

「もし?あなたの左腕の刻印は私が刻み付けたものではなかろうか?」と。

僕はこう見えて身の程を弁えている。100円皿の男の刻印は甘んじて受ける。そうだ。僕が卑しくもお寿司などを食すことがそもそもの間違いなのだ。家で、すし太郎でも食べておけば良かったんだ。なんか返って悪いことをしたね。そんな気持ちでいっぱいだった。店員には「そうだけど、気にしないでください(僕は100円皿しか頼まないのだから・・・)」と伝える。

そうすると店員は「大丈夫ですか?今、上のものを呼んできますんで。」そう告げると店員はどこへともなく消えていった。

僕はそんなのはとうの昔の出来事のように感じて3ターン目の注文を済ませた。

今度は頼んだ通りの品物(100円皿)が運ばれ「美味」などと舌鼓を打ちながら口の中にほうばる。

そうしていると先ほどの店員と上のもの(店長)がやってきて「どうもすみませんでした」ってなもんで謝りにきた。僕のほうはお寿司を食べるのに夢中で正直煩わしく感じたが以外にもあっさりとした謝罪で僕の食事を妨げるものではなかった。

しばらくして上のものがやってきて何やら封筒のようなものを僕に手渡してきた。「大変申し訳ありませんでした。クリーニング代です。引き続きの食事(100円皿)を楽しんでください。」

そんな感じでお金をもらった。100円皿の刻印を押されたのは屈辱だったけどお寿司を食べに行ったら逆にお金をもらえることだってある。

時を同じくしてうちの実家では甥の誕生日と言うこともあり一家で焼肉を食べに行ったようだ。柄にもなくブルジョワジーみたいな生活をしてやがる。なんて思ったものです。

翌日、実家に晩御飯を馳走になりに赴いた。

「すし太郎」でした。

きっとうちの家族も焼肉屋で何らかの刻印を刻み付けられたに違いない。
すし太郎は、みんなに平等に優しいんだ。

「ありがとう」

僕はそっと呟いて、白い色で人をおちょくっているかのような魚の絵が書かれた皿にすし太郎を大盛りに盛った。

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2008年9月10日 (水)

イマジネーション

想像力と言うのは非常に大きな武器であり防具である。

イマジネーションにはいろんな種類があるが大きく分けて2つの種類に分類される。1つは成功した姿を想像するイマジネーション。もう1つは失敗した姿を想像するイマジネーションと言った具合である。

人間の想像力と言うのは非常に豊かなもので実にいろんな事柄を頭の中で創造するものである。期待を大きく膨らませた場合は成功のイメージが思い浮かぶ。反対に不安を募らせた場合は失敗のイメージが思い浮かぶ。向かうベクトルが異なると言った違いだけで想像の中での結果は大きく変化する。

例えば何らかの病気で闘病している時に希望を持って自分の病状が好転するイメージを頭に思い浮かべて治療した場合、回復に向けて病状が好転することがあるらしい。反対に負のイメージを頭に思い浮かべた場合、病気の回復も遅れ、時には悪化することもあるらしい。

好きな女の子に告白するときも成功するイメージを持ってシュミレーションした場合、告白と同時にチューしたりもなくはない。反対に失敗するイメージを持ってシュミレーションした場合、警察沙汰にもなり兼ねない結末を迎える。

これは単にマイナス思考な人は失敗のイマジネーションしかできないと言った訳でもない。僕は日替わりで救いようのないくらいのマイナス思考に陥ることが多々あるが、沈んだときこそイマジネーションの中では成功した姿を思い浮かべることがよくある。現実とギャップのある想像は「妄想」と言った言葉で表現されるが、まさにそれである。おそらくこれは人間の防衛本能が働くせいだと思われ、世知辛い世の中から逃避するときに起こる現象だと思っている。

いや。書いてみたもののそんな難しいものではない。僕の場合は、単に能天気なだけなのかも知れない。

しかし、前述の通りイマジネーションで成功した姿を思い浮かべて行動することにより結果が良いものになるケースもある。そう考えると沈んでいるときこそ成功した姿を思い浮かべるのは最低限、必要な努力と言えよう。

僕は現在、沈んでいる。否。抜けている。

他でもない。頭髪のことだ。

部屋の中には抜け毛、と言うか散発した?ってくらいの髪の毛があちらこちらに落ちている。食事にもそこそこ気を使っている。生活習慣にもそこそこ気を使っている。洗髪にはなかなか神経質に気を使っている。頭皮への育毛剤の散布は毎日の必須行事だ。

なのにか?それだのにか?ハゲると言うんですか?殺生ではないですか?21世紀になったと言うのに人間は、いや、僕はまだ髪の毛の量のことなどで悩まなければならないのですか?カツラとかケチくさいこと言わずにゴボっと髪の毛が増えないもんか?ほんじゃまか?

いろんなことに気を使うのも大事だが、僕は一つ大きなことを見落としていた。

そう。イマジネーションです。

髪が「ボッ!」っと生えてくるイマジネーションをするのを忘れてました。もうね、「ボッ!ボッ!」っと生えてくるイメージを思い浮かべることに必死ですよ。イマジネーションが強烈過ぎて現実まで毛が飛び出してきやしないかハラハラドキドキ、すなわちハラドキですよ。ようわからんけど。

そんな感じでイマジネーションで髪を生やしてみようと思っていますね。イマジネーションって言うか「ボッ!」って声が出てるもんね。肉声ですね。想像の中の僕は耳毛なんかすごいことになってるもんね。あのね、あのね、あのねのね。

まぁ、結局何が言いたいかと言うと、想像力なんて何の役にも立たないってこってす。現実逃避したい場合はこの上ない味方になってくれるんですが、戦わないと!現実と!ってこってす。

そんなこと言いながらも「ボッ!」って言いながらイマジネーションを膨らましています。想像の中にはカッパや落ち武者が出てくるので笑える。

やっぱ笑えない。

イマジネーションと言うのは非常に大きな武器であり防具である。

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2008年9月 6日 (土)

良かれ

良かれと思ってやったことが全く役に立たないことだってある。それどころか迷惑を掛けてしまうこともある。

だけど、「良かれ!」と思ってやったんだ。それだけはわかっておくれよ。

人は何でも自分の物差しで物事を計ってしまいがちだ。自分の中の常識が他の人達にとっても常識であり、通用することだと思い込んでいる部分がある。

"普通"と呼ばれる枠の中に入っている平凡な自分に安心する部分と、"普通"の枠に納まらない自分の個性の部分に対して何やら優越感や劣等感を感じる。そして自分の中の"普通"の枠が世間一般の常識と近ければ万人にとって通用するものだと思い込んでいるところがあるのだ。

善意とは、世間一般の"良い"とされる枠の中に納まっていることを他に向け発信する行為だと思われる。自分の個性の部分でなく平凡の部分の物差しで計るべきなのだが、稀に個性の部分で善意を行ってしまう人がいる。しかしそれは紛れも無く純真な善意であり気持ちとしては有難く感じるものだ。

茹だるような暑い夏。僕はいつものように通いつめた喫茶店で昼食を取る。数年前、職場が変わる前までは毎日のように通いつめ曜日毎に決められた日替わりのランチを注文する。毎曜日、同じメニューで少々飽きてはきてはいたが、僕は頑なに日替わりランチを頼んだ。他にもメニューはあるのだが、店の意向としてはランチを少しでも消化させたいものがあるのだろうと思っての行為だ。僕なりの善意だ

そのうち店のおばちゃんとも仲良くなり、店が暇な時などには軽口を聴くようになった。どうやら僕はおばちゃんに好かれたらしく僕のプライベートな部分にも立ち入ってくるようになった。やれ結婚はしているのか、やれ彼女はいるのか、やれ晩御飯はちゃんと食べているのか。そう言った具合にいろんな話をするようになった。

そして、客が少ない日には食後のコーヒーをサービスで出してくれるようになった。本来ならば食後のコーヒーは200円なのだが僕にはサービスで出してくれた。

おばちゃんの心の温かさが伝わってくるような熱いコーヒーだ。

そう。茹だるような暑い日に・・・

僕は汗だくになりながら食後の暑いコーヒーを飲み干した。

おばちゃんのその気持ちは、紛れもなく善意だ。何も見返りを期待することのない純真な気持ち。僕にとって「良かれ!」と思ってやってくれた行為だ。

僕は汗だくだった。

そう。それは紛れも無く善意だった。

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2008年8月31日 (日)

気持ちの寄せ集め

何が地球を救うんでしょうか?

僕は500円玉貯金をしていました。500円玉がたくさん欲しいので買い物をする時なんかに500円玉がお釣りでくるように支払いをするんです。そして財布の中の小さなポッケに忍ばせておきます。多い日には4~5枚の500円玉が小さなポッケに入ることもありました。財布がパンパンになる頃に貯金箱に移します。いっぱいに入れたら30万円貯めることができる貯金箱を何度かいっぱいにしたことがあります。

そんな訳で僕の財布には常時、数枚の500円玉が貯金箱に入るのを心待ちにして待機しているのです。

街中や大きなショッピングモールでちょいちょい行われている街頭募金。僕は常備している500円玉をそっと募金箱に入れる。それがどんな類の募金だろうと関係ない。とにかく財布の中に500円玉がある限りは募金箱に500円玉を1枚入れることにしていた。僕が募金箱にお金を入れる動機としては僕の財布の中に500円玉があるから、と言う以外の理由はなにもない。

そうとは言え、もちろんどこかの誰かのためになっているかも知れないと思えば何やら良いことをした気分にはなる。僕の500円が、どこかの誰かのためになっているかも知れないと思えば少し嬉しい気分になる。

しかし、募金をする時にどこかの誰かのためになると思って行うのならば非常に無責任な真心だ。募金を必要としている人がどれほど困っているのかわからない。どれほどのお金が必要なのかもわからない。下手したらなんのためにお金が必要なのかもわからない場合もある。果たして募金をすることで助かるのかもわからない。

募金を必要としている人に届いていることを確認することなく僕は「何か良いことした」気分になる。

そう。きれいごとを一切省いてしまうと募金とは自己満足に他ならない。僕の「良いことをした」と言う気持ちを第三者の手に全面的に託して必要としている人に届けてもらうことで自己満足をしているのだ。第三者の手に託した時点で誰かのためになっているかを見届けることなく自分の頭の中で勝手に作ったイメージで誰かの役に立っていることを思い浮かべて少し嬉しい気分になったりしている。

極論、誰かのためになるかどうかなんて知ったことではない。僕は自分の自己満足のために500円玉を募金箱に入れる。もちろんその結果、誰かのためになれば嬉しい気分にはなるだろうが、第三者に託した時点で僕の500円玉が本当に困っている人の手に届き、役に立ったかどうかを知る術はないのだから想像の域で勝手に嬉しい気分になる以外のことはできない。他人に対して真心で行う行為であれば募金以外の手段を選ぶだろう。第三者に託す真心とは非常に無責任なもので真心と呼べる代物ではないように感じるのだ。

他人に対して真心で行う行為ともなれば、それこそ、ごくごく身近な人にやってあげたい。それは友情や愛情や情けと呼ばれるもので送り手が受け手に対して十分に感情移入できる間柄でないとそう言った気持ちになることは難しい。

どこか遠い国で貧困に困っている人がいる。どこか遠いところで手術の費用が足りなくて困っている人がいる。

そんな事柄に心からの真心を届けることができるとしたら同じ境遇にいる場合だろう。しかし、同じ境遇にいるとすれば自分のことすら間々ならない状況だと考えられるため募金などの行為は難しいと思われる。

受け手のことを考えるのであれば受け手が望んでいるものを送って上げられる行為が何よりもの助けになるだろう。寒さに耐え忍んでいるのならば衣服や毛布。飢餓に苦しんでいるのであれば食料。渇水で水源が涸れているのならば水。病原体が蔓延してのならば医療。金銭的援助が必要であるならばお金。

僕らがそれらを届けるのは大抵の場合が見ず知らずの人々へ向けてだ。故に感情移入はそれほどのものにはならない。第三者に託す以外の方法を使ってまでそれらを届けるだけの気持ちもない。真心と呼ぶにはおこがましく感じるほどの気持ちしか届けることができない。だから気持ちが届くように、なんてことを期待してはいけない。もしもそれを期待するのならば実際に送ったものが届くところを見届ける必要があるのではないだろうか。

今、現在、24時間テレビなるものが放映されている。

時計が回ったので昨日の話になるが知り合いから電話があった。内容は「チャリティーをやってる場所を教えてくれ」と言う話だった。僕は30余年間生きているので過去に24時間テレビを何度も見たことがある。なので知っている。チャリティーをやっている場所なんてあちこちにある。それこそちょっと大きな駅にでも行けばテレビ中継などの場所にはなってはいないかも知れないが募金箱くらいは置いてあるんじゃないだろうか。電話の主もきっと知っていたはずだ。

僕はふと思った。「この人は僕以外のあと何人の知り合いに電話をかけてチャリティーの場所を聞くんだろうか?」と。僕の卑しい心は、電話の主が「わたし、募金してきます」って言っているように捕らえてしまったのだ。僕の中では「募金は自己満足」で完結しても良い事柄だと思っているので他人に対して「おれ、募金してくるよ!」なんてことを言うことではないと思っている。

彼は自己満足を得るだけでは足りなかったのだろうか。困っている人に何かを援助したと言う優越感を感じたかったのだろうか。そしてそれを誰かにアピールしたかったのだろうか。

募金なんてものはお金さえあれば誰にでもできる。僕のように自己満足をするために募金をする人にもできる。自己満足で完結できない人にでもできる。そして第三者に託した結果、受け手にはとっては必要な品物が届くような気もする。

寒さに耐え忍んでいるのならば衣服や毛布。飢餓に苦しんでいるのであれば食料。渇水で水源が涸れているのならば水。病原体が蔓延してのならば医療。金銭的援助が必要であるならばお金。

必要なものは届くだろうけど僕らは見ず知らずの人に対して送るものに真心と呼べるほどの気持ちを乗せることは難しい。

少し話しは飛躍するが、愛とお金は両極に存在するもので天秤の片側に両方が乗ることはできない。得てして右翼と左翼に分けられて乗せられて秤に掛けられるものだ。

テレビなどを見ていると募金などの受け手が感動している場面などを目にすることがある。「こんなにたくさんの気持ちをありがとう」なんて言っている。それは良い。それは分かる。見ず知らずの人に援助されたりして助かるのならば非常に嬉しいことだろうし感謝の気持ちでいっぱいになるに違いない。

しかし、そこで勘違いしてはいけない。送り手は「自分の気持ちが届いた!」なんて思って感激するのだが、果たしてそれだけの気持ちを乗せたのか甚だ疑問だ。美しい場面を台無しにするようなことを言って大変心苦しいが真実ではないだろうか。

送り手の自己満足の行為の結果、受け手が感激してくれた。そしてそれは自分の気持ちが届いたからだ。なんてことを思っている人がいるとすれば偽善者だと思う。乗せてもいない気持ちが届く訳がない。勘違いしてはいかん。それだけ人に感謝されても良いくらいの気持ちを乗せたものを届けるつもりならば、せめて第三者の手に委ねるような手段は選ばないはずだから。

誰かのためになるかどうかなんて知ったことではない。僕は自分の自己満足のために500円玉を募金箱に入れる。もちろんその結果、誰かのためになれば嬉しい気分にはなるだろうが、第三者に託した時点で僕の500円玉が本当に困っている人の手に届き、役に立ったかどうかを知る術はないのだから想像の域で勝手に嬉しい気分になる以外のことはできないが僕は募金箱に500円玉を入れに行ってみようと思う。

僕は地球を救う気は更々ない。僕の自己満足のために行う行為なので、そんなに大きな気持ちは乗せられない。しかし、そう言った気持ちの寄せ集めが大きな真心を生み出しているのかも知れない。

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