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2008年4月

2008年4月27日 (日)

忘れかけた何か

汚い!汚い!汚い!

朝起きた途端に思いましたよ。部屋が汚いんです。もう、嫌になっちゃってね。米粒やら埃やらがいっぱい落ちてるんです。誰がこんなに汚したんだ!って、僕なんですけど、家から飛び出しましたよ。

そして車に乗り込んで逃避行を行う訳なんです。

そこでまた汚い!汚い!汚い!

乗った途端に発狂しそうになるんです。車が汚いんです。もう、嫌になっちゃってね。買ってから2ヶ月も経ってないのに、砂やら小さなゴミやらがいっぱいです。誰がこんなに汚したんだ!って、僕なんですけど、車から飛び出しました。

僕は潔癖症とまでは言いませんが、綺麗なほうが好きですよ。そりゃ、誰だって汚い部屋や車よりは綺麗なほうが良いでしょうってもんですよ。

もうこんなのはうんざり。ってことで身の回りを綺麗にしようと思ったんです。そう思ったんです。あの頃は・・・僕に心の中には確かに芽生えかけていたんだ。それは儚くも切ない、決して終わることのない逃避行の始まりだったんだ。

こんなことをしてたんじゃ、いつまで経っても綺麗になんてなりゃしないですよ。掃除するのが、面倒なのでそれなら汚さなければ良いではないか、と言うコンセプトで日々の生活を送っているのですが、それでも埃や小さなゴミは出てしまうものです。

とにかく綺麗にしなければ、そう思い、まずは生活の拠点である部屋を綺麗にしようと意気込んで部屋に戻るのです。

部屋に帰った途端に思いましたよ。部屋が汚いんです。もう、嫌になっちゃってね。米粒やら埃やらがいっぱいに落ちているんです。誰がこんなに汚したんだ!って、僕なんですけど、家から飛び出しそうになるところをぐっと堪えてDVD鑑賞の用意する。

レンタルで借りてきた恋空を見る訳ですよ。どの面さげて"恋","空"だと思うのですが、借りてしまったんだから仕方がない。レジに持って行くのが、エロ本買うよりも恥ずかしかった。まぁ、ちょっとストーリーに凝ったAVみたいな映画でしたけど、主演の女の子が可愛かったので良しとしました。僕もいつか空に恋でもしたいな。なんて、働くおっさん劇場からの出演依頼が来てもおかしくないほどのおっさんが一人で見ました。

一、映画ファンとして、最近の映画の風潮には少し危惧しておるんですよ。特に恋愛もの。この恋空にしてもそうだけど、出会いはロマンティックでしょ。「とめて!」って叫んでから4半世紀も経ってるのに止まってない状態でしょうが。ロマンティックが。

運命の出会いは奇跡のようなもんだって感じにしたいんでしょうが、あんなことがそう簡単に日常に溢れてたら誰だって彼女7~8人はいますよ。それこそ、女の人の後を徹底的に尾行してハンカチ落とすまでつけ回すくらいの行為でもしない限り「お嬢さん、ハンケチを落としましたよ。」なんてシーンは有り得ないと思われる訳ですよ。

主人公の女の子のお父さんが虎舞竜の人でしょうが。思った以上に影薄くて大和田獏かと思ったもの。セリフなんてほとんどないのにロードなんて全13章まであるって言うじゃないですか。

若者をターゲットにしたようなものには徐々に共感できる部分が少なくなってきているような気がするこの頃なのです。そんな自分を認識していました。今でも十分な青二才であることは間違いないのですが、いつから僕はこんなことを考えるようになったんだ。いつから純愛ものとAVの違いもわからなくなるほどに自分を見失ってしまったんだ。僕は落胆の色を隠せません。

若い人の気持ちがわからなくなったから?自分が年老いてしまったことを実感してしまったから?自分の心が荒んでしまったから?

いや、そんなことじゃない。僕は何か。そう、とても大事な何かを忘れかけてしまってるような気がする。

でも、恋空のお陰で思い出せそうな気がする。今、この機会に元の自分の姿を、気持ちを思い出せそうな気がする。あと、少し。あと、少し。

記憶の奥底に沈んでしまった忘れかけた思いを取り戻そうとする。大事な何か。

僕は床を見つめながら記憶の糸を辿る――――――

誰がこんなに汚したんだ!って、僕なんですけど、家から飛び出しましたよ。

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2008年4月25日 (金)

ヒーローの成り方

ウルトラマンは最高のヒーローだった。

他にもたくさんヒーローはいる。仮面ライダー、ゴレンジャー、ギャバンと様々なヒーローがいた。その中でもウルトラマンは僕の中の一番のヒーローだった。

多分、名前に「マン」が付くからだろう。強いヒーローは、みんな「マン」付いている。スーパーマン、スパイダーマン、バットマン。みんな力強くて格好良いヒーローだ、悪と戦い正義を愛する。そんな姿勢が「マン」からは伝わってくる。

しかし、例外もある。子供の頃にTVの再放送かなんかでやってたのを見たことがあるのだけど、「ミラーマン」なるものがやっていた。全然格好良くなかった。話し自体はどんなものかは全く覚えていないのだが、作りとしてはウルトラマンと似たような構成だったのだろう。しかし致命的なほどに風貌がダサかった。ミラーマンも他のヒーローと同じように悪と戦っているのだろうが、格好良くないもんだから正義の味方と参上されても誰も待ち望んでいないよな気がして哀愁よろしく状態なんじゃないかと心配ってか呆れていた。そのダサさがそう思わせたのだと思うのだが、ミラーマンとならガチ勝負で勝てるような気がしていた。

それから、数々のヒーローを見ては憧れ、真似をしてみたり、グッズを集めてヒーローごっこなどをしたものだ。自分の名前に「マン」をつけてヒーローになった気分になったりする遊びをしたものです。「経多雨マン!参上!」とでも言っときましょか。

ヒーローとは少し違うかも知れないけど、キン肉マンと言うのも一世を風靡したもので有名だ。その中でもとりわけキン肉マン消しゴム収集は当時の子供たちの間では一代ムーブメントを巻き起こした。駄菓子屋だろうが、スーパーだろうが、おもちゃ屋だろうが、どこへ行ってもキン消しがないところはなかった。じいちゃんに買ってもらったキン消しセットは僕の宝物だった。キン消しの勢いは留まるところを知らなかった。そのうち通常のキン消しの5倍ほどはあろうかと言うデカイサイズのキン消しが登場し、レアなキャラを手に入れると一躍みんなのヒーローになったもんだ。「キン消し集めマン」と言ったところであろうか。

そして次のムーブメントはビックリマンチョコだろう。僕はビックリマンには、そこまで情熱を注がなかった。ただ、あのチョコは美味しかった。当時は30円で売られていたが、今では値上がりしてしまったようだ。今でもチョコ目当てで買うことがあるが、中のシールが結構楽しみだったりする。

あとはヒーローではないけど「ブッシュマン」とかですね。ニカウさんだったっけ。今考えると何であんなものが流行ったのか不思議になるが、とにかくあの頃の人々はみんな夢中になった。

他にもたくさんの「マン」が存在する。キッコーマン。なんだかすごいことになるような予感がしているでしょう。僕もものすごいことになるような気がして仕方がない。

醤油からは、ただならぬ雰囲気を感じる。「キッ」を取り除いたらえらいことになる。って、言うかエロイことになる。「キッ」を取り除いた状態で何回も繰り返し反復して読むと僕を魅了して止まないものに変化する。「コ」と「マ」の間に挟まった棒になりたい。「マン」を取り除いて出来あがった「キッコー」の響きがM心を擽る。縛られたい。キッコーマンとは何とも魅惑の名称をつけてくれたもんだと感心するばかりなのです。あとですね、「ッ」の後ろに「つい」を付け足して―――際限ないのでやめておきますが、とにかくキッコーマンこは締りが良いのです。それにしても濃い口って。

計画的に話しを脱線させてしまった訳ですが、「マン」の付くヒーロー達は僕の心を掴んで離さないものが多いんです。僕もいつかヒーロー達の仲間入りを果たしたい。そしてキッコーマンのようになりたい。とは思ったことなんかない。なのになんだ!さっきから!マンコ!マンコって!

今まで出会った「マン」が付くものの中で、そそられるものを感じなったのは前述の「ミラーマン」と「チェホンマン」くらいなものです。

僕が今から書くことをどうか見逃して欲しい。これが言いたくて今日のブログを書いたようなものだ。もっと言うならこれを言うために大人になったようなものだ。

僕はサラリーマン。

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2008年4月24日 (木)

チン毛と海賊

僕は海賊になりたかったんだ。

中学1年生の夏、チンコに毛が生えてきた。当時は祖父母の家に泊まりに行くと近所の銭湯に行っていた僕はチン毛が生えたことが大人の仲間入りを果たしたような気分になり誇らしく、無精髭のようにチロチロと生えかけのチン毛を見せびらかしに銭湯に行っていた。

チンコサイズは今とそう変わらずキュートなものだが、当時は大人か子供かを分けるのはチン毛の有無だと思っていた。僕は恥ずかしいのと嬉しいと言う両極端の気持ちを持ち合わせたピュアハートだった。

精神は頼りなく不安定で幼いものだったが、体の成長がそれを認めることを拒んだ。大人と子供の境界線を跨ぐ僕に強い自惚れが湧き上ると同時に自尊心が芽生え始めた。

しかし、実態は些細な波風で沈んでしまうのではないかとヒヤヒヤする不安を抱える小さな舟で大海原を航海しているようなものだった。あてにならない方位磁石とすりガラス越しのようなぼやけた視界でハッキリとしない海図を片手に行き先がどこなのかもわからない中フラフラと漂っていた。

日常の1コマ1コマの出来事が、大きな波であり風であった。荒波に揉まれながら沈んでは浮かぶ小船にしがみつき、何処へ辿り着くのかもわからないまま、それでも得体の知れない未知の世界に希望と夢があった。

1コマの中には想像を絶するほどに、きらめく美しい海があり、神々しく光り輝く眩しい太陽があった。

フローネ号との出会いはチン毛も生えはじめて大人になりかけている自分を自覚している頃のことだった。

僕の地元である広島にはたくさんの川がある。僕たちは暇を持て余すと川へ行って遊んでいた。

ある日、ヤスとミツが「フローネ号に乗りに行くか」と言いだす。ヤスとミツは近所に住む同級生で、いつも一緒に行動する友達だ。2人とも豪快な性格をしていて、彼らと行動すると常に新しいドキドキが舞い込んできた。どちらかと言うと消極的だった僕にとっては彼らが持ってくる刺激をおっかないと思いながらも楽しみで仕方のないスリルだった。僕の少年時代の冒険の1コマにはいつも2人がいた。

フローネ号とは河川敷に繋がれていた小さな船のことだ。その舟はお風呂のような材質で出来ていた舟で子供の僕らでも3人乗ったら沈没覚悟での航海になることは必至だった。

僕たちは我先にフローネ号に乗り込む。案の定、フローネ号は転覆。ひっくり返ったフローネ号からみんな放り出されて全身がびしょ濡れになってしまった。

僕らは岸に上がり、逆さまになりながらも海を目指して進んで行くフローネ号を遠くに眺めながら岐路に着いた。

男ならば誰しも海賊に憧れを持ったことがあるであろう。冒険心は子供ならば誰でも持っているもので、僕らにとって海賊とはまさにそれであった。海賊とは冒険の代名詞であり、冒険をするものにとって海賊は登竜門のようなものであると信じていた。

現実は進路も定まらない舟の舵を取り、行き先も未定のまま進んでいるか止まっているのか戻っているのかさえもハッキリとわからない。そんな現実を打ち消したいからなのか、自由に大海原を航海する海賊は憧れの的だった。

僕は海賊になりたかった。

行き先を見据えて遠い大陸を目指して大海原を駆け巡る。そして幾多の苦難を乗り越えた先には、金銀財宝のお宝があるはずだ。

フローネ号転覆事件から数日後、僕らは更に新しい舟を見つけるべく、懲りずに川へ向かう。そうすると、どうだろう。海に帰っていったはずのフローネ号の姿が見えるではないか。きっと下流でフローネ号を見つけた誰かがここまで戻してくれたのだろう。

僕たちは狂喜乱舞で喜びの宴を開くよりも前にフローネ号に飛び乗った。学習能力の低さは並ではないため、またもやすぐに転覆しそうになる。しかし、何とか体制を保ち水面を漂う。

キャプテンハーロックよろしく海賊を気取ってみるのだが、エンジンも無ければオールも無い。僕らは現実の世界と同じようにただ行き先未定のままボート難民のように水辺を漂っているのがやっとだった。

僕らの行く川は干潮時には歩いて向こう岸まで渡れるのではないかと言うくらいの川だった。干潮にもなると川の真ん中部分に陸地が出来あがる。フローネ号の船員である僕らは必死で真ん中にある離れ小島を目指す。みんなの手が舵でありオールであった。

流れもそうきつくなかったようで真ん中の離れ小島に辿り着くことができた。そこには金銀財宝はなかったが僕らは達成感を感じることができた。じっくり噛み締めたいとこではあったが、離れ小島の陸部分が少なくなっているのに気がつき岸に戻ることにした。

今度は慣れたもので元の岸に辿り着くのにはそう苦労はなかった。しかし、流されながらの航海だったためフローネ号が最初に繋がれていた場所よりも随分下流に辿り着いてしまった。僕らは戦友であるはずのフローネ号を放置し河川敷で一休み。またまた海へ戻っていくフローネ号を眺め、背中を押す夕日に急かされながら家路に着く。

僕らはフローネ号を操り舵を取り、自らの力で離れ小島に辿り着いたことに誇りを感じていた。海賊のように逞しく力強い生き方ができるような気がしていた。

それから数日後、僕たちはスッカリ海賊になった気分になり、またフローネ号の代わりを探しに川へ行く。そこで見たものに驚きを隠せなかった。そこには再び海に帰ってしまったはずのフローネ号の姿があるではないか。僕たちは狂喜乱舞するよりも前に我先にとフローネ号に乗り込もうとする。

そこに背後から何者かが迫る気配がする。見ると、オールを持ったおじさんが仁王立ちでこちらを見ている。僕ら海賊たちは一瞬で悟った。フローネ号の持ち主だ。

固まったまま動けなくなっていた僕たちに対しておじさんは「お前らどこから来たんだ?」と問い質す。世間話でもするかのように柔らかい口調ではあったが目は笑ってはいなかった。

そこでヤスが「山梨から来たんじゃ」と広島弁丸出しで言い放つ。おじさんは笑いながら「どうやって?」と問い質す。

僕らは目配せで合図をし一気に河川敷を駆け上がるためにダッシュを始める。おじさんは「どっから来たんや!」と、さっきの口調とは明らかに違う調子で激しく迫る。

僕らは後ろを振り向かずにダッシュした。途中、僕は財布を落としてしまい、拾っている最中に後ろを振り返るとオールを振りかぶって追いかけてくるおじさんの姿が見えた。

オールを振りかぶり目の前に迫るおじさんに向かって「山梨じゃぁぁああ!」と吐き捨ててダッシュで逃げる。おじさんが追いついてくることはなかった。

何とか逃げ切った僕らは興奮冷めやらぬ中、もうフローネ号はヤバイだろう、と言う結論に達し、先ほど味わったスリルの余韻を味わいながら家路に着いた。

それからも川へ行くと小さな舟を見つけてはフローネ号の再来だと大はしゃぎし、海賊になろうかとも思うのだが海賊ごっこはフローネ号が最初で最後となった。

夏が終わる頃、僕のチン毛はボーボーになっていた。

冒険の象徴であった海賊に対しての興味も薄れ、そのうちフローネ号のことも記憶の彼方に追いやられ話題にも上らなくなった。チン毛量が増えれば増えるほど冒険心が少しずつ減っているような気がして寂しい気持ちになった。大人ぶらないといけないと思っていたので冒険などをしているのが滑稽に思えたのかも知れない。

僕は思う。体が急激に成長する時期に、心は子供から抜け出せないでいる思春期と呼ばれる時期に体験する出来事は、その後の人生に多大な影響を与えるものだと。

そして、今更ながらおじさんに悪いことをしたなと反省する。

僕は今、海賊の船長の髭のように立派なチン毛を蓄えて、少年だったあの頃よりは幾分安定感のある舟で大海原を航海している。僕の舟は頼りなくてハッキリと航路が定まっている訳ではないが、波風にさらされながらも何とか前進しているような気がする。

少年だったあの頃と変わらない。海賊になったあの日、あの離れ小島で見つけた宝物よりも、もっと素敵な宝物を今でもまだ探している。

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2008年4月23日 (水)

ニュータイプへの覚醒

新しいものが次々と生み出され便利な世の中になっていきます。

それは非常に嬉しいことなのですが、その影では、新世代の押し寄せる波に飲み込まれて隅へと追いやられてやがては消えていく数多の古いものが存在します。

人はみんな新しいものを欲してしまうもので古いものに愛着を感じつつも新しいものを常に望んでいる。人間とは何とも欲張りな生き物です。しかし、その欲求のお陰で人類は進化の過程を辿ることができたことは事実に他ならない。

この春、僕の手元にもたくさんの新しいものがやってきました。新しい靴、車、ブログ。それらは僕にとって掛け替えのない大事なもので古いものを隅に追いやってでも欲しいものでした。

靴なんてものは僕なんて元々持ってる数が少ないものですから新しい靴が手に入ったからと言って古いものを失うことはありませんでしたが、他のものは別でした。

僕が5年間乗った車。10万キロ走った車。どこへ行くのにも一緒だった。いろんな思い出を乗せた車には当然のことながら並々ならぬ愛着と愛情を持っていました。しかし、新しい車がやってきたのと同じタイミングで僕の思い出を共有したまま走り去って行った。

そして、ブログ。この4月からこちらへ引っ越してきたのですが、それと同時に以前までのブログは辞めてしまいました。2年半くらい前からやってたブログ。流れる歳月に休み休みの更新ではありますが、僕のいろんな思い出や記録を綴ったものでしたので大事なものがいっぱい詰まったブログでした。

新しく手に入れたものの代償として手放さなくてはならなくなった古いもの。名残惜しい気持ちもありますが、新しく手にしたものの新鮮さに喜び、見惚れている間にまた月日は流れていく。そして新しかったものもいつしか古いものになり、次から次へと世代交代を繰り返す。

僕はふと自分の部屋を眺める。この部屋に住んでから1年ちょっとが経つ。もうそんなに経つのか。この部屋に住みだして新しく手に入れたものと言えば、自立心だろうか。その代償として帰宅した時の部屋の明かりと晩御飯、そして家庭の温もり、たくさんのものを失ったような気がする。

しかし、それは将来、僕が築きあげていくべきものであって、今まで与えられていたのが当たり前だと思っていた気持ちを正してくれた。あながち失ってばかりでもないのかも知れないな。などと思い、何物にも替え難いものを手に入れたような気がします。それは古くもあり新しくもある。プライスレス。お金では買えない価値とは、まさにこのようなことなのではないだろうか。

新しいものを手に入れる代償として大切なものを失っていく。それでも人はまた新しいものを欲する。そんなことを繰り返しながら生きていく。思えば、人間なんてものもそう言うもので、どこかで終わる命があれば、また違うどこかで新しく始まる命が誕生する。古いものと新しいものが入れ替わる出来事は自然の摂理に他ならない。

そうだ。だから受け入れるしかない。だから悲しむ必要などない。そう自分に言い聞かせる。

でもね。遣る瀬無い。何がって。さっきから部屋を見渡しているんですけど、無残にも抜け落ちた僕の髪の毛が床に無数に散らばっているんです。髪の毛。僕の髪の毛はボロボロと抜けていく。そう、自然の摂理に従って。そして新しい髪の毛が生えてこない。そう、自然の摂理に逆らって。新しい髪の毛が生えてこないどころか新しい髪の毛までボロボロと抜けていきやがる。どうなってんだ自然の摂理。出てこい!

僕の部屋はフローリングとかなんとかって言うかわいらしい名前の床でしてね。掃除なんて満月の夜くらいにしかしないものだから小さなゴミや埃や髪の毛が床に散乱した状態になっている訳ですよ。普段、床に落ちてるゴミなんて気にしないんだけど掃除した時に見てみると髪の毛が逆立って血の気が引くほど髪の毛が落ちてますからね。

誰かがどっかで髪の毛を集めてきて僕の部屋の中に漂わせているのではないかと思うくらいの無数の髪の毛の残骸が見当たる訳ですよ。本当に誰かが持って来てんじゃなかろうか。もしくは、例のコロポックルが持ってき―――そりゃ、ない。

しかしですよ。それだけ抜けた髪の毛が落ちるってことはですよ、抜けた本数と同じだけの新しい髪の毛が生えてくるのが自然の摂理ってもんでしょうよ。新しい髪の毛があんなにたくさん生えてきたら今頃僕の頭はアフロですよ。アフロってることになるはずでしょ。

でも、僕はアフロっていない。どうやら僕の髪の毛は自然の摂理に逆らっているくさい。

レジスタンスと化した毛根達が摂理と言う正規兵と闘いに負け続け、次々と弱っていく様はもう見たくない。だから摂理に従うんだ。反旗を翻すのはもう少し時が経って十分に準備をしてからにしろ、と言いたい。

髪の毛たちの抜けていく勢いは鬼神の如く凄まじいもので、目にも留まらぬ早業で投げる手裏剣ストライク。なんて言ってる場合じゃない。もうね、言いたかないけど、禿る予感が加齢の匂いと同等に、いやそれ以上にプンプン匂ってくるんですよ。ニントモカントモ。なんて言ってる場合ではないのです。

僕は現実を受け入れることができない。思春期の頃の僕の髪の毛は異様に多すぎてセットもままならなかったため、短髪にしていたではないか。分け目をつけたいと散髪屋のニィちゃんに相談すると、「冗談顔だけにしろ」って笑いながら言った目は笑ってなかったじゃないか。スプレーでガチガチに固めた頭でスキーに行ったら初対面の女の子から「大丈夫?痛くない?」と真顔で心配されたではないか。

そんな僕の髪の毛がなくなる。―――そんなことがあるはずがない。時代が許さない。野武士の生き様を潔しと手本にしているが、このままでは落ち武者になってしまう。そんなのは耐えられない。せめて戦場で散りたい。

僕は将来、シャーみたいになりたいと思っているのに禿げあげたアズナブルなんて全然、赤い彗星じゃない。いつかララァに導いてもらってニュータイプになるんだ。

「まだだ、まだ終わらんよ」

そうだ。僕の頭皮はまだ終わっていない。

ミノフスキー粒子を頭に振り掛ける。そしてマッサージを繰り返す。サイコフレームに包まれた僕の毛根は激しく活性化される。すると、どうでしょう。見る見る髪の毛が伸びてくるではないですか。ジャックと豆の木みたいな感じだ。たちまちアフロになってしまうではないですか。シャーにはなれなかったけど、レツみたいになっちゃった。散髪に行ったらアムロになれるかな。まぁ、髪の毛も生えてきたし良いか。

そんな感じです。なんだかよくわからないって人に言っておきますが、僕だってわからんわ。

しかし、まぁ、ものは考えようです。宇宙人とかってみんな髪の毛なんてないじゃないですか。あれは体の不要な組織を取り除きながら進化した結果、あのような姿になったのではないかと思うのです。人間だって尻尾が不要だったからなくなったんだろうし。そして名残として尾てい骨が残った訳でしょ。これが、もっと進化したら尾てい骨でさえなくなってしまうに違いないですよ。言うてみたら、現代の人類はまだ進化の過程を辿っている最中なんですよ。まだ未完成なのです。人はまだ先に進める!その第一歩が髪の毛なのではないでしょうか。僕ら禿げは人類の完成系に近付いている!

今よりも更に新しいものを手に入れるためには髪の毛が邪魔なのです。100年後の人類は今よりも進化しているだろうから産まれた時から髪の毛はないね。これホント。

科学の発展により紫外線やら太陽光線やらを遮断するシールドみたいなものが出てきてごらんなさいよ。髪の毛の存在意義は皆無でしょうが。洗髪なんて煩わしい行為も必要なくなります。銭湯に行ったときに髪の長い女の人が余計に30円多く払うこともなくなります。

タコみたいになんのためにあるのか不可思議な触手を持つ火星人だって、TVで紹介されるイラストの宇宙人だって、みんな髪の毛なんてありゃしないでしょ。古いものをどんどん捨て去って進化の極みに辿り着いたものだけが手に入れることのできる新しい姿。それが"禿げ"なのではないでしょうか。いや。もう結論付けても良い。

そしたら僕ら禿げなんて時代の最先端ですよ。髪の毛いっぱいの人よりも頭ひとつ抜きん出てる新人類と言うことになりますよ。僕の体は完成系に近付くためへの準備を始めだした。その証拠が、僕の部屋のフローリングだかなんだかに散らばった髪の毛ですよ。

そう言えば、最近、どこか遠くで僕の名前を呼ぶ声が聞こえるような気がする。テレパシーって言うんですかね。ニュータイプへの覚醒が始まったんでしょうね。まぁ、オールドタイプの方の言葉で言うところのノイローゼってのに通じるものがありますよ。

急速に進化していく僕の体。進化のために髪の毛が抜けていくのは仕方がないことだ。むしろ大歓迎だ。

僕は新しいものが欲しい。常に今よりも新しいものを手にすることを欲している。その願いは思わぬところで、そして今まで欲したものとは次元が違うほどのものを手に入れようとしている。

僕は新しいものを手に入れた代償として、旧人類にあたる髪の毛ボーボーの人達と共有できる思いが少なくなってしまうことをちょっぴり悲しく思う。自分だけ先のステージに進んでしまうのは心細いが仕方がない。僕は人類の中でも選ばれた人間なのだから。潔く進化していこう。

そうだ。僕の逃避はまだ終わっていない。

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2008年4月22日 (火)

グルメ音痴のチャーハン

僕は世界に名を轟かせることができるかも知れないほどのグルメ音痴だ。

何を食べても美味しく感じることができる素敵な味覚を持っている。どんなものを食べてもよっぽどでない限りは不味いとは感じない。家庭で出される料理で不味いと感じたものは今までの人生では、ほぼないに等しい。

しかし、そんな僕でも不味いと感じる料理がある。それは自分で作った料理だ。料理と言うほどのたいそうなものではないのだが、僕が作るものは尽く神がかり的に不味い。どこでに出しても恥ずかしくないくらいの不味さを誇るものと自負している。

つい最近、作ったものの中で一番不味かったのが、チャーハンだ。チャーハンの素を使って作った。素を使って作ったら誰が作っても同じものができると思われている方もいらっしゃるかと思う。しかし、僕に掛かればたちどころに不愉快になるほどの食物が出来上がる。その風雲急を告げる不味さにある種の感動すら覚える。彦摩呂もタジタジになることは間違いない。

それでも僕は限界まで胃の中に流し込む。この辺りがグルメ音痴界のプリンスと呼ばれる所以であろうか。常人ならば僕の作った食物を口に入れただけで遺憾の意を露にすることは請け合いです。

どうでも良いけど「いかんのい」って「れもんのれ」とか「みかんのみ」とかと似てるね。本当どうでも良いね。死んじゃえば良いのにね。

僕は何を食べても美味しく感じる味覚を持っているのだが、それでも美味しく感じない食べ物もある。

僕は無類のラーメン好きです。僕の部屋の隣にはラーメン大好き小池さんみたいな人が住んでいる。そしてその小池さんのベランダにはいつも洗濯物がいっぱいだ。廊下ですれ違った時に挨拶もしてくれない。僕が引っ越してきたときに挨拶に行ったのに居留守中でした。それはそれらの事柄は今から書くこととは一切関係ない。

近所にある美味しいと言われるラーメン屋は大抵行った事があります。その中でも僕が一番好きなラーメン屋はラーメンとご飯を頼むとおでんを一本サービスをしてくれると言う画期的なシステムを採用している店です。

その店には休日の昼間に行くことが多いのですが、100%と言って良いほどファミリー客がいます。僕は独身貴族なのでファミリー客が多い店には入り難かったりするのですが、その店は店主の配慮で店の真ん中に長い机が置いてあって、一人で入ってもその長机にさえ座ればあら不思議、疎外感を味わうことなくラーメンと美味しく頂くことができます。多分長い机が一番大きいからだろう。根拠はない。

僕はその店のラーメンの味も好きだけど、おでんのサービスや、さり気ない心配りが気に入って通っている。

先日、友人から美味しいラーメン屋の情報を仕入れた。広島の西区にあると言われるラーメン屋なんですけど、僕はそれまで名前も聞いたことのないような店でした。僕の家からそう遠くない場所にあるらしいので日曜日に早速チーと一緒に行く事にしました。

カーナビの力を借りて辿り着いたその店はとてもじゃないけど便利なところとは言い難い場所にあり、店の看板も目立つようなものではなく、たまたま通りかかった人がフラっと入るような感じの店ではありませんでした。

僕は期待に胸が膨らむ。こう言う辺鄙なところにあるのに口コミで噂が広がる店ってのは得てして美味しいものだ。

店の中を少し覗き込んで見ます。どうやら夫婦で営んでいるらしく民家の一階部分を店舗にしていると言う佇まいです。そしてカウンターだけの店内には昼時と言うこともありそこそこの人数の客が見えます。

店の入り口まで来て少し違和感を覚えながらも店内に入ります。その違和感とは店の前にメッセージボードが置かれていて「静かにできないお子様を連れての入店はご遠慮ください。」的なメッセージが書かれていました。僕がいつも行くラーメン屋には「静かにできないお子様」はたくさんいる

店に入るなり店員である奥さんが「カウンターの奥から詰めて座ってください」との指令が下されました。店内には客がいるものの指定された席に座らねばならないほど混雑している訳ではないのに。僕は少し戸惑いながらも指示に従い奥の席へ腰を下ろす。

そしてチーと一緒にメニューを眺めてラーメン2つとおにぎりを注文することにしました。そしてカウンター内の目の前にいる奥さんに「注文良いですか?」と尋ねる。そうすると奥さん。「ほんの少し待ってくださいね」と。僕は一人でこの店に入ったならば悪態をついて店を飛び出していたかも知れない。店の入り口のメッセージや席を指定されたことに少なからずムッとしていたからだ。

タイミングを見計らわずに注文した僕が悪いのか。カウンターの客のラーメンは僕らと僕らの隣に座っている人以外には行き渡っている。どう考えても客の注文を後回しにするだけの理由が見当たらない。

なんだか久々に嫌な気分になる。夜中に家の前にウンコでもしといてやろうかとか考えながらも注文を済ませてしばらく待つ。店主であろう旦那さんの巧みの業である手際は良く僕らの目の前にはあっと言う間にラーメンがきました。

そして一口、口に含んでみた。なるほど、友人が勧めてくるだけあってなかなかの味だ。辺鄙なところにあるにも関わらずわざわざ客が来るのも頷ける。

僕がいつも行くラーメン屋よりも随分濃い目ではあったが、これはこれで良い味だ。

ラーメンを食べ終えて店を出た。僕はもうこの店に来ることはないだろうと思いながら。

僕のバカ味覚は正直、美味しいものとそうでないものの区別が付かない。だから何を食べても美味しいと思うことができる。この店のラーメンは確かに良い味をしているが、僕にとっては美味しいラーメンではなかった。

僕は飲食店に対して過剰なサービスは求めていないつもりだ。必要以上に清潔であることも求めていないし、必要以上のサービスを求めてはいない。もっと言うなら美味しくなくても良い。

僕は客の立場を利用した横柄な客にはなりたくないので、店の人が料理の注文を聞きにきてくれるとき、水を汲みにきてくれるとき、食べ終わった食器を片付けてくれるとき、ほんの少しの感謝を伝えるようにしている。それは店の人のさり気ない心配りに対してのお礼でもあるし、僕自身も美味しいものを食べたと言う満足感がより大きいものになるような気がするから。

そうすることにより店の人もほんの少し良い気分で客を迎えることができるのではないだろうか。

これは客と店員の関係のみの話ではなく人間関係全般に言えることだと思っています。

この度のラーメン屋は「うちのやり方が気に入らないなら来てくれなくて結構」と言った感じの店なのでしょうが、僕はそんな店で食べるものを美味しいと感じることのできる感覚は持ち合わせていないので店の方針に従おうと思う。お互いに感謝の気持ちを素直に出せないような店には行きたいとは思わない。

でも、そんなことはどうだって良いんだ。僕が言いたいのはあのチャーハンを食べるのだけは二度とゴメンだと言うことなんだ。

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2008年4月21日 (月)

知らぬが仏

知らぬが仏と良く言ったもので、この世の中には往々として知らないほうが良いと言うことがあるものです。

知ってしまったが最後、どっぷり浸かって抜け出せなくなってしまうことや、知ってしまったが故に失望してガッカリしてしまったと言う経験が全くないという人はいないのではないでしょうか。

前者の知ってしまったが最後抜け出せなくなる。これは身近なところにも潜んでいます。

例えば甘党の人。甘い物が好き、と言っても産まれつき甘い物が好きって人もそうそういないと思います。やはりどこかでキッカケがあったのではないでしょうか。

僕の場合は、きのこの山との出会いがキッカケです。僕は最初のきのこの山さえ食べてなければ甘い物が好きと思うことはなかったはずです。しかし、きのこの山を知ってしまったが最後、甘い物が食べたくて仕方がない時があります。僕の場合は症状は軽度ですが、重度の甘党の人はいつも手の届く範囲に甘い物がないと落ち着かないと言う人もおられるかと思います。ダイエットもしないといけないけど、甘い誘惑に負けてしまいついつい食べてしまう。

これは人間が快楽を求めてしまう性を持っている限り避けられない問題なのかも知れません。

そして、後者の知ってしまったが故にガッカリ。これも案外身近なところに潜んでいるものです。

最近、街で探偵社の看板を目にすることが多くなりました。探偵社と聞くと工藤ちゃんみたいなハードボイルド崩れの仕事を思い浮かべるのですが、その実態は浮気調査などがメインの仕事になるようで看板の売り文句も「浮気調査承ります」的なことが書かれています。

結婚相手や交際相手の浮気を調査するために探偵社に駆け込む人の需要が多いのでしょう。そもそも浮気調査を依頼するってことは、うすうす勘付いているのでしょうが、それを白日の下に晒したいと思われている方がするのでしょうが、実際に浮気をしていることの証拠が突きつけられた依頼人は少なからず失望しガッカリするのではないでしょうか。

これは人間が好奇心や探究心と言った欲求を持っている限り避けられない問題なのかも知れません。

「知らぬが仏」の場面は案外、日常のあちこちに散りばめられているように思います。

その「知らぬが仏」の問題は僕の身にも降り掛かる。

さて、僕は3階建てのモダンな造りのアパートメントスタイルの1階部分に住んでおります。今の住居に引っ越してきて1年とちょっとが過ぎました。角部屋のため隣接する部屋は隣と上の階の部屋だけです。

僕がこの部屋に引っ越してきて一番良かったと思えるところは静かなところでした。隣の住人は生きているのか死んでいるのか分からないくらい静かです。一度だけ廊下でバッタリと出くわしたことがあるのですが、学生を思わせるような風貌とラーメン大好き小池さんみたい雰囲気を兼ね備えた青年でした。そしてその堂々とした挙動不審な態度は科学の教授でもやってそうな感じでしたよ。たまに夜中にゴソゴソしている時があるのですが、何か実験でもやってんだろう。

そして、僕が引っ越した当初は上階の部屋は空き部屋だったようで、当然物音はしません。減量中のボクサーは水道から滴る水の音がハッキリと聞き取れると言います。そしてその音が脳裏に染み付いて実際には水道から水が滴っていない時に、水が滴る音の幻聴が聞こえノイローゼになってしまうことがあるそうです。僕は減量もしてないしボクサーでもないけど音に対しては人一倍敏感で神経質なので今の部屋の静けさは快適で理想の居住空間でした。

去年の秋頃のことだと思いますが、そんな僕の快適ライフを脅かす存在が現れました。とうとう空き部屋だった上階に住居人がやってきたのです。上階は男性の1人暮らしのようで足音が聞こえてきます。そしてその足音は非常に大きな足をしている印象を受ける音です。しかも臭そう。ヒバゴンの名に恥じぬ足音です。ジャイアント馬場でさえ実際は14文しかなかったと言うのに上階のヒバゴンは16文どころの騒ぎではない。

そして、ヒバゴンには彼女がいます。ヒバ子です。これが週末になる度に上階に訪れてサルのようにニャンニャンするもんだから堪ったもんじゃない。サッコルばっかしてるんですよ。いやぁ。これがですね。ヒバ子の声が半端じゃないんですよ。初めて聞いたときはヒバゴンがとんでもないDV男で彼女であるヒバ子を16文で殴る蹴るの暴行を加えているのかと思いました文。しかし、実際は16文のチンコでヒバ子を悲鳴をあげさせてたんですけどね。

そんなのを毎週聞かされたら僕だって悶々する文。ってなことですよ。

まぁ、僕としては想像力が鍛えられるので良い訳なのですが、僕の隣の部屋の教授の実験の邪魔になっていないかだけが気がかりです。

それで、ですね。そのうち週末になると僕も上階で事がおっぱじまるのを心待ちにしちゃったりなんかしてね、週末の楽しみになってしまってたんですよ。ヒバ子が訊ねて来た時は夜に一回、朝に一回と市販の風邪薬みたいな勢いで「夜と朝だけ飲めば効く」みたいな状態でハッスルですよ。そしてその度にヒバ子が、アパッチの雄叫びですよ。「ウララー」ってなもんでしょうが。

普通は他人のサッコルの時の声なんてAVなんかでしか聞くことがないでしょう。それがですね、上階から聞こえる訳ですよ。しかもAVなんかよりもデッカイ声です。なんせアパッチだから。そりゃあ、僕かて興味津々になってまいますよ。僕が殿だったら「ほぉぅ。絶叫するオナゴとな。一目見てみたいもんじゃ。連れて参れ。」とでも言うに決まってますよ。

もうね、僕はあの絶叫ヒバ子がどんなオナゴなのかが気になって仕方がない。殿じゃないけど見てみたい。隙あらば入れてみたい。―――などと思ってないことにしましょうよ。

しかし、この好奇心には複雑な思いもあるのです。毎週、上階でまことしやかに行われている行為を聞き耳を立てて聞いているぶんには想像力とかチンコが膨らむのですが、これはヒバ子がどんなオナゴかを知らないから成せる業なのかも知れません。どんなオナゴかを知ってしまうと想像力が半減してしまうかも知れません。

僕の想像の中のヒバ子は山田優がF1のキャスターやってる時にドライバーとゴニョゴニョした関係になってドライバーのチンコでシフトチェンジしたりですね、馬乗りになってロデオみたいに腰をグリングリンさせてですね、それこそピットイン、ピットアウトを繰り返してですよ、次々とドライバーを虜にする訳ですよ。山田の父は難病を患っており、その治療費を稼ぐために芸能界入りを果したんですけど、その稼ぎでは治療費を賄うことができず、ドライバー達に体を委ねることと引き換えに大金を得ていたのです。ある男の引き合いでアラブの石油王の愛人になり、そのお陰で父の治療費の心配はなくなったのですが、F1キャスターとしてヨーロッパ諸国を渡り歩いているうちに暗殺者になってしまって数々の暗殺に手を染める訳です。そして新たな暗殺依頼がくるのですが、それは山田の父の恩人であるアラブの石油王を消す依頼だったのです。山田の気持ちは激しく揺れ動く。しかし、この世界に身を置くヒットマンとしては私情を挟むことは許されない。山田は決意し、石油王を暗殺することになるのです。山田はこの暗殺の依頼人を突き止めようと躍起になるのです。それはヒットマンとしては御法度の行為なのですが、山田にはこの依頼人を突き止めることに命を懸けます。幾多の苦難を乗り越えた山田は暗殺の黒幕に辿り着くことができます。運命の悪戯と言いましょうか暗殺の依頼人はあろうことか山田の父だったのです。「知らぬが仏」とはまさにこのことだ。さぁ、どうする、山田。

僕の想像の中のヒバ子はそんな感じのイメージの娘なんです。いや、嘘だけど。まぁ、いろいろ想像するってこった。

そう言った訳で絶叫ヒバ子がどんなオナゴかを知ることよりも想像の域にいてもらうほうが僕にとっての幸せなのだろう、と思ってたりした訳ですよ。

そして、今日、チーと一緒に僕の家に帰宅した時のことですよ。丁度時を同じくして、あるカップルが僕と同じ建物内に入ろうとしている。人のことをとやかく言える容姿はしてないのですが、ちょっと冴えない男と田舎者が背伸びしてみました的な女でした。手を繋いでおられましたよ。

何やらスーパーの買い物袋などを持っていたので、今からご飯でも作って食べるのでしょう。そしてその後はアウトインを繰り返すのでしょう。そんなことを考えながらカップルの後に続くように建物内に入ります。先に入ったカップルは上階の住人のようで階段を上っていきました。

僕とチーは僕の部屋に入り、下駄箱で靴を脱いでいました。そうするとですね、僕の部屋の上の階の部屋からも音がします。恐らく僕たちと同じように靴を脱ぐ作業をしているであろう音が聞こえます。僕とチーは顔を見合わせて互いに目で語り合った。「やつらがヒバゴンとヒバ子!」

ついに見てしまった。16文ヒバゴンと絶叫ヒバ子を。

ヒバゴンなんて全然大きくなかったし16文ところか1文の得にもならないような冴えない男だった。ヒバ子なんてヒットマンでもないし乳首も真っ黒みたいな顔してたよ。

僕の想像力が絶たれた。これからはあの絶叫を聞くたび小さなヒバゴンと乳首真っ黒のヒバ子の顔が思い浮かんでしまう。

僕は上階の住人を知ってしまったことによりガッカリする結果になってしまった。まさに「知らぬが仏」だ。

上階のカップルは今日も夕飯後にサッコルしたのでしょう。そしてまた乳首真っ黒の絶叫が響いたことでしょう。

サッコルを知ってしまったが最後、どっぷり浸かって抜け出せなくなった2人にとって「知らぬが仏」だったかを知る術はない。

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2008年4月19日 (土)

The fight at the public bath

ほら。僕ってホモじゃないですか。

突然のカミングアウトに驚いているのは他でもない自分自身なのですが、僕はホモなんです。しかもロリコンだ。でも、ホモだからショタコンって言うんですかね。それにMなんですよ。あと露出狂でもあるし覗き魔でもある。もうね。磁石みないなもんです。僕は、ありとあらゆる変態の要素を引き寄せる磁石みたいなものです。

先日、銭湯に行った時のことです。いつものようにチンコをブラーンとさせて浴場に入って体を洗うのです。僕の家の風呂はユニットバスなので普段、体を十分に洗うことができないしチンコブラーンも満足にできないので銭湯に行った時は、それこそゴシゴシ擦るしチンコブラーンも我が物顔で行います。擦りすぎて変な液が出てくるんじゃないかってくらい擦りますよ。摩擦するのです。

さぁ、摩擦が終わったらいよいよ湯船に浸かることができます。これもまた自分の家ではできないことなので、最高に気持ち良いですよ。例えるなら摩擦を加えた時くらいの気持ち良さです。元々、風呂が好きって訳でもないのですが、結構頻繁に銭湯に行っています。大きい風呂は気持ちが良い。

さぁ、湯船に浸かってスッカリとサッパリしたんですけど、銭湯にはサウナなんてものもありますよね。これもあまり好きではないのですが、何となく入ってしまいます。そんでまたチンコブラーンでサウナに入る訳です。そしてブラーンと座るのです。

TVなんか置いてあるもんだからついつい見てしまうのですけど、僕はサウナが苦手だ。じゃあ、入るなって話なんだけど、僕は入る。そこにサウナがあるから。僕が行く時間帯は結構遅い時間と言うこともあって人もまばらです。コの字型になっってて階段状の腰掛に座るのですが、1辺に1~2人くらいの間隔でゆったりとしています。みんな力石みたいになってますよ。僕は高いところが好きなので階段状になった腰掛の一番上に陣取ります。いつもならば僕も我慢大会に参加するのですが、その日は何だか妙な胸騒ぎがしたのですぐにサウナを飛び出す。サウナなんか体に良い訳ない。

さぁ、サウナに入ってご機嫌な斜めになったところで、いよいよ露天風呂です。相変わらずブラーンです。サウナですっかり干しシイタケみたいになった気分なんですが腹はボテーンと情けないことになっています。

打たせ湯に入り、頭上から流れ落ちてくる湯に頭を突っ込む。修行している気分になります。そして無心になる訓練をします。打たせ湯は、いつも優しく教えてくれる。煩悩に包まれて生きている僕に無心になることなど無理だと。これも修行の賜物だ。打たせ湯は良い。

露天には小さい椅子がいくつかあってそこで涼めるようになっているんです。僕はその椅子の一つに腰を下ろし、空を見上げたり地面を見たり壁を隔てたところにあるであろう、幾ばくかのおっぱいのことを考えたりを繰り返していました。

何か視線を感じる。鋭く突き刺さるような視線を感じる。矢のような視線を感じる方向に目をやってみました。そこには露天に浸かる1人の男の影が。椅子に座っている僕よりも一段低い位置にいる男の視線は僕のおチンロンに痛いくらい突き刺さっている。男とは少し距離があるのだが、薄明かりの中に目視した男の顔は阿部サダヲをホモにしたような顔だ。一目で分かった、阿部サダヲ似のホモだ。

サダヲは僕がサダヲの視線に気が付いてサダヲの方を見ているのを気が付いたのにも関わらず僕のネイキッドチンロンを品定めでもするかのようにガン見している。視線を逸らす気配はない。このままサダヲに見つめられ続けたら溶けてなくなるかも知れない。そんな一物の不安が、いや一抹の不安がよぎる。僕は「あわわわ」と露天から逃げるように浴場内に入った。

そうだよ。サウナで感じた胸騒ぎはこれだよ。最上段に座る僕のほうに視線を向ける男がいたではないか。その男の視線はTVとは逆の位置に当たるところに座っている僕のほうに向いていたではないか。僕の息苦しさはサウナの蒸気のせいではない。サダヲの常軌のせいだ。逸するサダヲの視線のせいだ。

それにしてもあんなにガン見してくるとは敵ながら天晴れ。などと、思いながらも湯船に浸かる。

僕は熱いお湯が苦手だ。だから。銭湯に行かなければ良いじゃん、って思ったんでしょ。だけど僕は銭湯に行く。そう言った訳で露天で冷ました体もすぐに火照る。性欲を持て余した週末の20代後半の独身OLくらいに火照る。だから、また湯船のコーナーに腰を掛け、足だけを浸けた状態にするのです。

ここでまた視線ですよ。突き刺さってますよ。噂のアイツがいつの間にやら僕の対角線上におわします。御仏のように僕のチンロンを見守っておられるのですよ。

僕はもう腹を括りましたよ。もう、見るが良い。好きなだけ見るが良い。何だったら勃起させてやろうかと思ったもんね。摩擦を加えるのは十八番だ。こうなったら根競べだ。僕が摩擦を加えるのが先かサダヲが勃起するのが先か。先に勃起させたほうが負けだ。いや、勝ちなのか。もうそんなことはどうでも良い、これは男と男の闘いだ。僕は今にも擦り始めるぞ、と言った勢いでサダヲを牽制する。サダヲは僕の気迫に圧されたのか、視線をチラチラと逸らし始めた。そのうちサダヲは湯船から上がり浴場内を欲情しながら徘徊し始めた。

僕があまりにも堂々としていたもんだから怖気付いたのだろうか。どうやら僕は闘いに勝ったようだ。

今日も良い気分で眠れそうだ。そう思いながら風呂を出る。

去り際にサダヲを見てみた。どうやら新しいターゲットを見つけたようだった。僕はちょっぴり残念なような複雑な気持ちになって「ん、もぅ」なんて呟いて銭湯を後にした。内股で。

僕の磁石でサダヲと言う狂気を引き寄せた感は否めないが、冒頭で書いたホモ疑惑については訂正しておきたい。しかし、その他の性癖についてはまんざら否定する気にもなれない。

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2008年4月18日 (金)

コロポックル クライシス

僕の会社の給料日はちょっと変わっていて月の真ん中の15日だ。

一般的に月末に給料を貰う人が多いのではないだろうか。みんなが「給料日まであと半月だ」と倹約に励んでいる頃に僕は一ヶ月で一番リッチで優雅に過ごしている。その5日後の20日頃には火の車になっている訳だ。誰か金くれ。

一昔前「同情するなら金をくれ」なんて言葉が一世風靡セピアかってくらい流行語のようになっていたが、毎月20日前後の僕はフレーズ通りの気持ちになる。だから金くれ。

毎月、給料日前の夕飯はご飯と梅干だけと言った精進料理が食卓を彩る。修行僧のようないでたちの僕にはピッタリだ。そうとは言え「来月こそは節約しよう」と心に誓うのだが次の月も給料日前には修行をすることになる。

こんなギリギリの生活はうんざりだ。それにしてもギリギリガールズって何だよ。と、憤慨しながらも一念発起し今月こそはと意気込んでいる最中です。

そう言った訳で今月は節約生活をしようと思っているのです。

それにはまず分析が必要だ。給料は多い訳ではないが、独身貴族の僕にとっては十分な金額があるはずだ。毎月ギリギリガールズになる訳があるはずだ。どこかで誰かが無駄遣いをしている。それを把握することが節約への第一歩に繋がる。

早速、自己分析をしてみる。服や食べ物にお金を掛けている訳ではなさそうだ。服なんていつも同じものを着ているし、食べ物だって舌がバカなのでお金を掛けずとも幸せを感じることができる。それなのにどんどんお金がなくなっていく。

早くも自己分析は難事件の装いを呈してきた。しかし、僕はこの謎を解かねばならない。

推理を始めてすぐに閃いたことがある。だけどこの閃きは、僕の大切な想い出にしようと思うのでここでは伏せておく。

では、こう言うのはどうだろう。―――やっぱりこれも大切に仕舞い込む。いつか波打ち際にでも行った時に涙と一緒に流すんだ。「バカヤロー!!!!でも・・・ありがとな」なんて。

前述した通り2つの可能性を絶たれた僕の思考回路はショート寸前だ。じり貧であることは間違いない。「おもしろくなってきやがった」僕は、そう呟いてありとあらゆる可能性に目を光らせる。「犯人はこの中にいる!」

僕の部屋には多分、小人がいる。それもただの小人ではない。小人よりも小さな小人、分かり易く説明すると「小人よりも小さな小人」がいる訳だ。ここでまだどんなものか分からない人のために説明しておくが、「小人よりも小さな小人」が僕の部屋にいる訳だ。その小人小小人が、夜な夜な僕の財布からお金を抜き取っては慈善団体に銀行振込をしているのではないのか。それならば全ての辻褄が合う。

事件の核心に迫らんばかりの推理を披露したところ恐縮ではあるが、全て取り消させてもらう。僕の部屋にはコロポックルはいない。小人小小人ってなんだよ。

自己分析と推理によって展開された物語ですが、いまのところお金のなくなる理由がわかりません。僕のお金がなくなるのは贅沢のせいでもなさそうだし、ましてやコロポックルの仕業でもない。では一体何故に。―――続きはWebで! http://www.hetau.com/

この手は前にも使ったのでもう使っちゃダメ。ダメェだ。URL嘘だし。

気を取り直して原因を探求してみます。

ほら。スーパーなんか行くじゃないですか。そうして目的の品を買い物かごに放り込みますよね。そして、そのまま店を一周してレジに行くんですけど、その時には目的の品物以外のものがたくさん買い物かごの中に入っているって言う経験ないですか。コンビニにタバコを買いに行ったついでにお菓子やジュースやエロス満載の本などをレジに持って行ってしまったことはないですか。"ついで"で買ったもののほうが目的の品よりも多かったり、高価だったりすることってないですか。

毎日買い物に行く主婦の方などは、このようなことが少ないのかも知れません。しかし、僕は毎日スーパーには行かない。よく行って1週間に1度くらいのもんです。

そうするとですね、「せっかく来たんだから、ついでにこれも買っちゃえ」と言ったことになる訳です。次にスーパーに行く時がいつになるかわからないもんだから無駄に買いだめしたり不必要なものを買ってしまったりするものなのです。案の定、"ついで"で買ったものは使われないまま天寿をまっとうするようなものが多いです。

僕のお金がなくなる理由の1つがこれだ。間違いない。原因が分かれば対策も立てやすい。買い物に行った時には目的の品を買い物かごに入れたらあまりウロウロしないこと。

そして2つ目。これは最初に閃いて心の大事な部分に仕舞い込んだものなのですが、ここで吐き出しておかないことには先に進めそうにない。2つ目の理由は至ってシンプル。男らしいと言うか潔いと言うか、単純に欲しいものが多いのです。

釣り具なんて買っても買っても、打ち寄せる波のように次から次へと欲しいものが出てきますよ。今欲しい物はギャフと言ってイカが釣れた時に海から引き上げるために使う道具。イカをギャフんと言わせる訳だ。今の駄洒落で×ボタン押した人がいても気にしない。カープも負けてないし、オヤジギャクと言われようとも構わない。多分、巨大イカは釣れないから無用の長物となることは目に見えているのですが、欲しい物は仕方がない。

それと、Eee PCとかって言う凄く小さなPCがあるんだけど、これも欲しい。これがふざけたくらい小さくて軽いときたもんだ。持ち運びにも便利そうなので非常に重宝するものになうことは間違いない。しかし、冷静に考えてみると僕はPCを使う時は100%部屋にいるので大きくて重くても良いし持ち運ぶことなど皆無だ。だけど、欲しい物は仕方がない。

あと、ロボット的な掃除機で自動で掃除をしてくれるって優れた掃除機があるんだけどそれも欲しい。僕の部屋は30代独身男性の部屋にしてはキレイなほうだと自負しております。こまめに掃除してるって訳ではないけど、物が少ないから汚れないと言った感じです。もしくは妖精達が僕が外出した隙に掃除をしてくれているのだと思う。それでも埃や髪の毛と言った小さなゴミが塵も積もれば何とやらで溜まっていく。そう言った訳でロボット的な掃除機が欲しい。ロボット的なやつでなくても掃除はできるんだけど、欲しい物は仕方がない。

付け加えるならDVDレコーダーが欲しい。普段は時間がなくてTVはあまり見ないんだけどDVDに録画しておけば後でまとめて見ることができるので便利そうだ。普段TVを見ないのなら必要ないじゃないかと思われるかも知れないけど、欲しい物は仕方がない。

まだまだ欲しいものはたくさんある。僕の「欲しい」は昼下がりの団地妻の如く溢れだしてくる。尽きることはない。欲望の亡者だ。

もはや節約などが出来る気がしない。節約術なんて僕からすれば忍法みたいなもんで、山に篭って育つ竹の子でも毎日飛び越えるような修行でもしなければ体得することができそうにない。

次回の給料日の前もギリギリガールズになることは確定したようなもんだ。精進料理でも食って修行しようと思う。

多分、僕がコロポックルだ。

2008年4月17日 (木)

SINGIN' IN THE RAIN

ほら。雨の日って時間が長く感じませんか。

それは多分、外からの刺激が少ないせいだと思うんです。音だって雨の音に掻き消されるし、空だってずっと同じ模様。

僕は雨の日があまり好きではない。雨音を聞いていると何だか寂しい気持ちになってくる。気分も少し沈んでしまう。

今日は朝起きて最初に聞いた音は、携帯がメールを受信する音だった。聞き覚えのある音。それはチーからメールが届いた時に鳴る音だった。

何か変だな。いつもならチーからメールが届く時間には僕は職場の喫煙室にいるはずだ。しばらく考えてみる。そうしていると雨の音が聞こえてくる。あぁ、今日は雨が降るって言ってたな。少し憂鬱な気持ちになる。

そして、携帯の時間を確認。マッタク。ついてない、どうやらこんな日に限って寝過ごしてしまったらしい。雨の音にイライラしながらも手早く身支度を済ませる。

僕はバイクで通勤しているため、雨の日にはカッパを着ないといけない。カッパを着るのは煩わしい。

雨が降ると運転も慎重になる。いつもよりもスピードダウン。そうでなくとも職場までの道のりは通勤ラッシュの車でかなりの渋滞が起こる。雨が降るとドライバー達も神経質になるのか、いつもよりノロノロ運転になる。これは遅刻してしまうかも知れないな、などと思いながらほんの少しスピードをあげる。バイクで濡れた路面を走るのは予想以上に気を使う。

なんとか遅刻を免れることが出来たが、職場に着いた頃にはクタクタになっていた。

雨の日には時間が長く感じる。そして少し憂鬱な気分になる。仕事もいつもよりもはかどらない。
毎日、時間に追われて通勤の時間は少しでも短縮できるように少し早めに出る。そして少しでも早く仕事を終わらせて早く帰宅するために仕事に集中する。

時間が足りない。1日の時間がもっと長かったら良いのに。そう思うことが最近増えた。毎日、時間と競争していつも負けているような気がするからかも知れない。

雨の日にはリズムが狂う。通勤の時間もいつもよりも少し時間が掛かってしまうし、仕事をしていても何だか頭が冴えないような気がする。

集中できていないせいなのか、時間がいつもより長く感じる。

仕事が終わって家に帰って、少しのんびりしてみた。

外から聞こえるのは雨の音だけ。規則的に一定のリズムで、道路やどこかの家の屋根を叩く雨音だけが聞こえる。

僕は雨の日があまり好きではないが、雨音を聞いていると何だか落ち着いた気持ちになってきた。気分も少し穏やかになってきた。

僕の一日は僕が思っているよりも緩やかに流れているのかも知れない。そう思った。

2008年4月16日 (水)

イニシャルM

日本語とは何とも不思議な魅力を持つ言語だ。

地域によって響きや意味を変え、時代と共に変化を遂げ、そして次の世代へ受け継がれる。
元々のものとは全く異なる響きに変わっても意味が通じる言葉も多々ある。人類の生命の連鎖と同じく、言葉もその歩調に合わせるかのように次々と新しい言葉が現われ、そして消えていく。

近年、短縮した言葉を用いる機会が多くなりました。

略語と言われるものですが、最近では元々の響きを完全に捨て去ったものもあるようです。「K・Y」を代表とした今までの略語とは趣向の違うものが生み出され想像だけでは意味を理解することは到底不可能なものまで存在する。

この略語は言葉をローマ字にして、きりの良いところで区切り、それぞれの頭文字を取ったものを並べて作られた文字列だ。そう説明されても「K・Y」が何を意味する言葉なのかを解読することは不可能だ。

こんなものは最初に言ったもん勝ちで「K・Y」を始めて使う人が「清原・野菜生活」の略語だ、と言ってしまえば「K・Y」は野菜好きの清原と言う意味を持った言葉になっていたかも知れない。

先ほどから「K・Y」、「K・Y」と連呼していますが、「K・Y」とは「危険予知」の略語です。

他にも略語と言えば様々なものがありますが、一般的に使われているもので解読が易しいものと言えば名詞を前半部、後半部あたりで切り離し語呂の良いほうで表現すると言った感じの略語ではないでしょうか。

例えば"コンビニ"や"セブン"、これらは前半部を用いた略語なのですが、"ネット"や"ハンズ"のように後半部を用いたものもあります。例外として"ファミマ"や"プレステ"と言った具合に単語の中の文字を抜き出した形で略されるものもあります。

一風変わったものとして"パソコン"や"ブログ"と言ったもののように正式名称よりも略語での認知度のほうが高いと思われるものもあります。

例で挙げたものは名詞の中に含まれる複数の単語を分解したり組み換えをしているだけなので、その略語が何を表しているものかを理解するのが比較的容易なのではないでしょうか。そして正式名称と同等の認知度があるものかと思われます。

これらの略語を聞いて何のことかが分からない人は正式名称を聞いても、やっぱり何のことかは分からないのではないでしょうか。

正しい言葉を使うことが一番良いことなのですが、幅広く認知されている言葉であれば省略した呼称を使うことも受け入れられる社会になってきました。

「K・Y」(危険予知)のように響きだけでは、どう言った意味を持つ言葉なのかを理解できないような言葉は、はしかのように一時的にブームになり、認知度は高まるのですが使い続けられるような言葉になったケースは多くありません。

「K・Y」については、新しい手法の略し方などと紹介されているが、実は同じ手法で略された言葉は「K・Y」より前に登場している。

「MK5」と言った略語だ。

紹介したものの、この略語の元となった言葉を知らない。「マジギレ5秒前」なのか「マジで恋する5秒前」なのか、「モンゴリアンキック5発」なのか「マングリガエシレベル5」、と言った具合にイニシャルの部分の単語さえ合えばどんな言葉にでもなってしまう。それにしても「モンゴリアンキック5発」は我ながら酷いと思う。

「K・Y」の場合は「危険予知」であって「清原・野菜生活」では断じてないことだけは分かってもらいたい。

どちらも共通して言えることが言葉の中の文字のイニシャルで形成された言葉と言うことになる。

そして「K・Y」よりも「MK5」よりも、もっとずっと前から言葉の中の文字のイニシャルで形成されている略語がある。その略語はもはや立派な単語として成り立ちこの社会に浸透しきって当たり前に日常に蔓延し誰からも親しまれている。

2つの異なる意味を持つ単語のそれぞれの頭文字をイニシャルにし組み合わせる。それは、2つのイニシャルを連ならせることにより1つの言葉になり、またそれぞれを分解しても、それぞれでしっかりとした意味を持つ。略語の王様と言っても良いだろう。

その略語とは、【S・M】だ。

「K・Y」などの生みの親と言っても過言ではないのではないだろうか。イニシャル略語の最長老と言った位置付けにあることに異論を唱えるものはいまい。この言葉は2つの別々の因子を持つ単語のそれぞれの頭文字をイニシャル化し合体させたあげく出来上がった言葉だ。否、行為だ。

【S・M】を訳せ。と、言われてもそこには【S・M】と言う意味しかない。しかし、どうだろう。2つの文字を分解してみると【S】サディズム、【M】マゾヒズムと言った全く異なる性質を持つ言葉に生まれ変わる。【S・M】の意味は「サディズム&マゾヒズム」ではない。【S・M】の意味は【S・M】だ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。

現在、常用されている略語のなかでこれほど素晴らしいものがあるだろうか。これほど単純で、そして難解な略語があるだろうか。僕は知らない。受け入れられない行為であり続けながらも、一般的に広く認知されている言葉。

その略語の意味の深さに心を奪われ、その略語の響きの心地よさに魅了されたが故に【M】への世界へと足を踏み入れてしまった訳だ。僕が。

日本語とは何とも不思議な魅力を持つ言語だ。

2008年4月15日 (火)

席替えスパイス

僕の職場で席替えがありました。

正確には先週の金曜の夕方に席替えを行ったのですが、「花金だぜ!」とかなんとか死語を垂れ流しながら職場を飛び出したので新しい席に落ち着いて座るのは今日が初めてでした。

移動した席はフロアの丁度、ド真ん中に位置する席でした。ここでちょっと想像してみてください。真ん中ってことはですよ、もしもフロアが折り紙だったとしたら、折ったときに丁度折り目になる位置です。なんでフロアを折り紙に例えたのかと言うと今からこうして謝るためにです。ごめんなさい。

席替えってのは、慣れきってしまってマンネリ気味の景色を変える事により新鮮な空気に入れ替え、周りとの親交を幅広いものにし、仕事への活力を生み出すために行うためにあるものと思われます。

席替えをすることにより劇的に仕事の効率があがることは考え難いことですが、毎日同じ会社へ行き、同じ椅子に腰掛け、同じ仕事をするデスクワーカーにとっては気持ちをリフレッシュする効果は得られるように思います。"エブリディ"が"繰り返し"を意味することと捕らえがちな僕らに対してのちょっとしたスパイスになる。

僕はコイケさんのことが好きでした。それは小学校2年生の時の席替えでのことでした。

僕らのクラスでは頻繁に席替えが行われていた。恒例の席替えは少し変わった方法で行われていた。先に班長を決めるのだ。立候補制だったんだけど、立候補者が足りない場合は担任が班長を任命するシステムだった。

その年代の少年・少女で自己主張が出来るような子供などいるはずもなく立候補者はいつも足りない状態だった。小学生の低学年なんてオランウータンが少し賢くなったようなもんだから誰が班長をやってもそう大差ない。そう言った理由でチンパンジーみたいな顔をした僕が班長に抜擢されたことがある。

僕が2年生の時は1学級で40名くらいの児童がいて、全部で6つのクラスがあった。もっと人数の多い小学校もあるだろうが、僕らの小学校もなかなかのマンモス小学校だった。「おっちゃん、かけうどん大盛り。大至急やでぇ」のマンモスとは訳が違う。

朝礼の時には体育館に入りきらないため高学年は2階の手摺越しに朝礼に参加していたもんだ。上から顔を覗かせる上級生に対してほのかに憧れを持ったものです。僕も高学年になったら高いところから小童共を見下したい。そして新世界の神になる、などとは思ったこともありませんが、チンパンジーだったから高いところに憧れも持つのも無理もない。残念ながら小学校3年生になった時に近所に新小学校ができたため僕の小学校は真っ二つになって人数も減ったため2階から見下すことは叶わぬ夢となった。

それはさておき、チンパンジー兼班長の僕には班長としての最初の仕事をこなさねばならない。班長は全部で12名います。40名ほどのクラスだったので、クラスの4分の1が班長と言うことになります。班長の有り難味など丸でない。

男女で6名ずつ選抜された班長は、お互い3名~4名の班員を抱えた長となります。男の班長の配下には男が配置され、女の班長の配下には女が配置されます。

今考えるとウチの担任は頭がどうかしていると思うのですが、男女ペアの班を作るために班長同士でパンチ・DE・デートみたいなことをさせていました。

いや、ねるとんのほうが近いかな。選抜された12名の班長はそれぞれ自発的に相手を選ばねばなりません。そしてペアを求められた側には拒否権まであると言う民主制度を持ち合わせた優れた制度であった。

班長は相手を選ぶ時に理由まで言わねばなりません。「○○さんと一緒に班長ができたら○○が、うまくいくと思うので一緒の班になりたいです。」みたいな。

僕の目にはコイケさんしか入っていません。しかし、僕には選ぶ権利がなかった。相方を選ぶ順番ってのがあって僕は一番最後だった。

もしも、相手を選らぶ権利が与えられたとしても僕はコイケさんを指名できたか、疑問になるような大きなネックがあった。それが、相手を選ぶと同時に理由を述べねばならないところです。

現代っ子はどうだかわかりませんが、昭和な僕たちにとって好きな子に好きって言うことはとても恥かしいものでした。母親にポキールをお尻の穴に張ってもらうよりも、学校のトイレで大便を垂れ流しているのがバレてしまうことよりも恥かしいことでした。

そんな中、みんなが男女ペアになるためにねるとんを繰り広げて次々とカップルが誕生していく。コイケさんはクラスのマドンナ的存在だったのだが、僕よりも先に指名する権利を持つ男達はみんなコイケさんを指名できずにいた様子でコイケさんは可愛そうに売れ残りのような状態になっていました。みんなが何故コイケさんを指名できかったと言う理由は痛いほどよく分かる。それは「ガチ」だからに他ならない。

成立するカップルを尻目に、残る男は僕とチャチャ。チャチャとは一年生の時からの親友で、入学した時に同じ忍者ハットリくんの上履き入れを持っていたのがキッカケで、以来学校から帰っても一緒に遊ぶこともあった。気の弱いチャチャはいつも僕の後ろを着いてきた。そして僕もチンパンジーのクセにチャチャといる時は少し偉そうにしていた。チャチャはそんな僕のことを何故か慕ってくれていた。そんな仲良しコンビが最後に残った。

残った女性陣はクラスのマドンナ的な存在でみんなから好かれているコイケさん。そしてもう1人、2年生の途中から転校してきた女の子。ボンバヘッドを持った女の子。これが活発な子でそこそこ社交的であるにも関わらずイジメられるようなタイプの子で頭はいつもドリフの爆発みたいになっていた。

爆発で脳みそが飛び出していたのか知らないけど、発表の時などの声が異様にでかかった。
そんなことでライオン丸だけは勘弁な、などと思いながらもチャチャも歴戦の勇者がそうであったようにコイケさんを指名することはできまい、ライオン丸を指名するんだろう、労せず一番の手柄を挙げられる自分の強運に誇らしい気持ちになりほんのり酔いしれていた。そしてチャチャはライオン丸を選んだ理由をこう言うに違いない。「声が大きいからライオン丸さんと一緒の班になりたいです」ってなもんや三度笠。

さあ、言え。チャチャよ。「ライオン丸は声がでかいから班が組みたい」と。僕は唇の端を釣り上げ笑いが込み上げそうになるのを噛み殺す。

悪い男だ。僕がデスノートを拾ったら大変なことになる。新世界の神になることはもちろん請け合いだ。僕は悪人などを裁きはしない。僕の言うことを聞かないやつを片っ端からノートに書いてやる。月1でリサイタルを開き聞きに来ないヤツの名前も全部書く。僕が新たな歌姫として名を轟かせるのもそう遠い未来の話しでもなさそうだ。手始めにちょっと前にラジオでの発言が問題になったウンコ色の肌をした小娘の名前でも書いてやるか。なんて名前を書くんですけど、彼女の名前は芸名だったため何事もなく時間が穏やかに流れていく訳です。そして「お前の字汚いから読みにくい」と言う理由でリュークのデスノートに僕の名前を書かれて絶命するってオチなんですけど、そんな話し、今はどうでも良いことでしょうが。

チャチャの言葉に耳を疑った。チャチャの口から出た言葉は「コイケさんと一緒の班になりたいです」だった。

チャチャァァア。計ったなぁぁああ!僕がブルース・リーだったら怒りに任せて鉄拳を見舞っていたところだが、僕はブルース・リーのことをブルー・スリーだと思っていたので、その資格はない。

下克上とも取れるその言葉には勢いは感じられなかったがハッキリとした意志が聞き取れる程の芯のあるものだった。しかし、コイケさんと班を組みたい理由についてはいつまで経ってもチャチャの口から発せられない。

業を煮やした担任がチャチャに「理由は?」と訊ねる。チャチャはムーミンよろしくもじもじしながらもセガールよろしく沈黙を守ったままだ。みんな理由は分かっていた。「コイケさんが好きだからです」のはずだ。

僕の相方はボンバヘッドに決定。理由は簡単「声が大きいからです」とだけ言ってお茶を濁しておけばそれで良い。僕がコイケさんとペアになって理由を言わなければならない状況になった時のことを考えるとさっきまでドラゴンへの道を歩かせてやりたいくらい憎かったチャチャのことが哀れになり可哀想になった。

担任が執拗に理由を尋ねる。もじもじしていたチャチャはついに泣き出してしまった。そして泣きながらキレ気味に「コイケさんは声が大きいから一緒の班になりたいです」と絶叫した。一同唖然とはこのことだろう。待てよチャチャ。それは幾らなんでも理にかなっていない。コイケさんは声はでかくない。むしろ、か細い声をしているじゃないか。それでもチャチャの絶叫に圧倒されたみんなは誰もそのことに触れることができるはずもなく、教室にはチャチャのすすり泣く声だけが静かにこだまする。

さて、ここで困ったのが僕です。なんせボンバヘッドなんて声がでかい以外の取り得を見出すには、それこそ天竺を目指す旅の行程ほどの大きなスケールの考察と時間が必要になります。

天竺はごめんだ。僕はチンパンだから旅の仲間には加えてもらえる訳がない。それに僕が同行する三蔵法師は多分意地悪のような気がするから頭のワッカなんて気まぐれで締めつけられそうだ。調子に乗って度を越した三蔵法師が僕の亀の頭にワッカを取り付けるだろうから亀を締めつけられる度に痛みを覚えるものの、そのうち快感になってしまった僕はわざと締めつけられるような行いをしてしまいそうだ。その度に感じてしまうリビドーを抑える自信がない。

そんなことが頭を駆け巡り、すすり泣くチャチャを死亡遊戯の刑に処することを決意しながらもライオン丸とペアを組む理由を考えた。

ペアを組みたくない理由は山ほどあるのだが、組みたい理由はビタ一文思い浮かばない。「ライオン丸はすぐに実験に失敗してボンバヘッドになるので一緒の班になりたくありません」と言えたらどれほどスッキリしたことだろう。しかし、僕は徹底的に無難な男だったのでそんな子供チャレンジみたいなスリリングな賭けはできない。結局、無難なところで「ライオン丸は明るくて元気が良いから一緒の班になりたいです」的なことを言った。

そしてその席で数ヶ月過ごし、次の席替えの時にまたしても班長の命を仰せつかった僕はライオン丸から逆指名されるのだった。ホロ苦いスパイスだ。

そんなことで僕にとって席替えとはホロ苦い想い出が付きまとう行事となった。

さて、長々と想い出話しに華を咲かせた訳ですが、ここからが本題なんです。職場の席替えは対面に先日、登場したニューカマーがおられるのです。可愛い女の子。今日は朝からずっと緊張しっ放しでした。

ここまで読んでくれた方はうんざりしていることでしょうが、この話しも長くなりそうな上に今まで書いたものよりもくだらないことになることは必至なので、ここでのこの話しはここまで。

続きはWebで!

2008年4月14日 (月)

Shangri-La

随分と昔の話しになるのですが、中国の方と一緒に仕事をしたことがあります。

何人かの中国人が、職場にやってきて一緒に仕事をしたのですが、中でも印象に残っているのがチョーさんとヨーさんでした。

チョーさんは流暢な日本語を話し物腰も柔らかくおとなしい性格をしていたのですが、存在感もあり中国人の中でもリーダー的存在でした。仕事もキッチリこなすし頼り甲斐もあることから僕たちの間においての信頼も暑い人でした。

しかし、いつも鼻毛が出ていました。調子の良い時にはかなりの本数が飛び出して超チョーさんになっていました。

そして、ヨーさんは鼻毛は出ていなかったのですが、何でも人のせいにする人でした。口癖は「ワタシ、ヤッテナイデスヨ」でした。ヨーさんが何かしらミスをすると大抵チョーさんがフォローをするような感じになっていたのですが、ヨーさんはトチ狂っていたのでしまいには、なんでもチョーさんのせいにしようとしていました。しかし、そのトボけたキャラが何となく憎めなくて、みんなから「トチ狂ってる」と思われながらも和気藹々とアットフォームな職場環境を作ることには一役かっていました。

そんなチョーさんとヨーさんですが、2人は同じ家に住んでいました。と、言うよりも同じ職場の中国人の人達は一軒家をみんなで借りてそこで共同生活をしていました。そうして、節約したて貯めたお金を少しでも多く国の家族の元へ仕送りをするのです。僕とそう歳も変わらない若者が、そんなことをしているのを知って偉く感動したのを覚えています。

外国から日本へ仕事をしに来ることは経済的にも豊かになる近道だったのだと思います。

そう言った感じで日本で仕事を出来ると言う事は、母国では大変なエリートなのだと思います。チョーさん、ヨーさんにしても母国語はもちろん日本語も話せるし英語もペラペラでした。日本人の僕でも日本語を流暢に使いこなすことがままならないのにやっぱり凄いことです。

それにしてもヨーさんのトチ狂い度は半端じゃなくて目に余るものがありました。一度、目撃したのですが、ごった返す焼肉屋で焼肉を喰らっていました。1人で。昼間に。みんなが定食を食べているのに。

一度、ヨーさんと話し込んだことがあります。「みんなで共同生活するって大変だね」などと言うと「みんな一緒だから寂しくない。物が高いのが困った点だけど理想の生活をしている。」などと言っていました。あと、中国からは黄砂が舞い上がって日本や近親諸国はエライ迷惑しているからヨーさんが偉い人になったら何とかしてくれ、と言ってみました。そうするとヨーさんは中国には黄砂などない、と言い張るのです。日本で舞い上がっている黄砂が中国から来たものの訳がないだろう、といつも以上にトチ狂った勢いで訴えかけてきました。

翌日、ヨーさんが僕のところに来て、「昨日のこと謝ります。」と。どうやら自分で調べたのかチョーさんに聞いたのかはわかりませんが黄砂の件らしいです。僕は何の気なしに話した世間話しのつもりだったので、そんなに真剣になって調べてきたヨーさんに対して驚きました。

他にもいろんなエピソードがあるのですが、一番印象に残っているのが、やはりお別れをする時のことでしょう。と、言っても僕がその職場を去る時のことなのですが、その時にチョーさん、ヨーさん、その他の中国の方に挨拶に行った時のことでした。チョーさんとはあまり世間話はしたことがなかったので、その時に初めて軽口を叩いて話したのですが、チョーさんはえらく日本が気に入ったらしく僕たちのことも一生忘れないと言ってくれました。僕はすぐにでも忘れてくれ、と伝えたのですが、その日の鼻毛量は通常通りだったのでジョークとして受け取ってくれたかどうかは今となっては分かりません。

そしてヨーさんに挨拶。ヨーさんも日本が好き、と言っていました。そして「またいつか来たいです」と言っていました。職場を去るのは僕のほうでヨーさんは引き続きその職場での仕事があるのですが、最後までトチ狂っていました。

続けてヨーさんは「ずっと日本に居たいです。いつか両親を招きたいと思っています。またどこかで会えたらその時はヨロシクお願いします。」なんて言うのです。ヨーさんにとっては日本は楽園のようなものらしい。中国に帰れば家族と一緒にいられるが、自分が日本でお金を稼ぐことにより国の家族に楽をさせてあげられる。そして自分も昼食には焼肉が食べられる。ヨーさんにとって日本は理想の場所らしく、長く滞在する間に好きになり、ずっと居たいと言ってくれた。そしてまた会おうと言ってくれた。

僕は目頭に熱いものを感じながらも再開を約束して職場を離れた。

それ以来、中国の話題になるとチョーさんとヨーさんを思い出す。

ここのところニュースで取り上げられることが多い中国。中でもチベットの問題が広く知られるようになり、中国の問題が浮き彫りにされている感がある。

チベットにはシャングリラのモデルとなった土地があるらしい。理想郷。

ヨーさんの残した言葉を思い出すと胸が締めつけられる。

2008年4月13日 (日)

コンプレッスク

タバコを吸うこと自体がどこかしら罪悪のような風潮があります。

近々、タスポなんてシステムが導入される。自販機に年齢認証を行うカードをかざしてタバコを購入するシステムらしいです。コンセプトとしては未成年者にタバコを買わせないようにするシステムと言ったことらしいです。それには賛同します。未成年者がタバコを吸うことは良いことではありませんので。

しかし、悲しいかな。システム自体がチープなものでとてもじゃありませんが、目的を達成できるような代物とは思えません。

タバコ=悪のイメージを根強いものにする以外の効果は発揮しないように思います。

世の中の「No!TABACO!NO!OF・ジョイトイ」の風潮を後押しするようなもので喫煙者側からすれば「またかよ」的な気持ちになるばかりです。そしえ喫煙者達は、タバコに火を点ける度に罪悪感を感じながら煙と溜息を吐き出すのです。

僕が子供の頃は世の中の空気が今よりも大らかだったのか、適当だったのかはわかりませんが、電車やバスと言った公共の乗り物などにも灰皿が常備されているのが当然のような光景でした。そして、今のように喫煙ブースなどは存在しなかったし喫煙者の人数も今よりも随分多いように感じました。僕の周りにいる大人はほとんどの人がタバコを吸っているように思えた。大人はみなタバコを吸うものだと思っていたし、大人になれば誰もがタバコを吸うようになるものだと思っていた。当時は、タバコを吸っていない大人を見るとなんでタバコを吸わないのか疑問に思っていたもんだ。

そして今、僕は喫煙者だ。

現在ではテレビでタバコのCMも見かけることがない。高層ビルなどでの街頭広告すらも消えていった。

害毒であるタバコを排除しようと言う非喫煙者の目は実に厳しい。黒歴史として闇に葬り去ろうとしているのではないかとさえ思う。その目に晒された喫煙者は身のやり場のない思いをする。悪のレッテルを貼られているようなバツの悪さを感じて闇の中で一点の灯りを灯し煙を吐くことを"仕方のない"事と受け入れるしかないのだ。

タバコを提供する側の姿勢も少しずつ変わってきた。自販機での販売時間に制限を設け、パッケージにはタバコを吸うことによって招かれる健康に対しての弊害が書かれるようになった。そしてタスポの導入。

僕らが子供の頃は日常のどこにでも溢れていたタバコだが現代では「受け入れられないもの」、「害毒を生み出す排除対象」、「闇の中に葬り去るもの」に成りつつある。

ある喫煙者の人が言っていた。「タバコを買う度にたくさんの税金を払ってるんだぞ。それなのに隅っこに追いやられて迫害されたような気分を味わいながら小さくなってタバコを吸わないといけないなんて非喫煙者の横暴だ」と。

僕は税金についてはかなり疎いのでこの度、調べてみた。

確かにそうだった。喫煙者が払う税金はトンでもない金額だ。タバコを買うために支払っている金額の半分以上が税金だ。消費税の5%なんて小さいものだ。

国家公務員の病欠の理由のトップと同じくらいの比率だよ。心の病だよ。心の病的に税金を巻き上げられている訳です。

それなのに、こう蔑まされる訳です。タバコは悪だ!タバコは害だ!タバコはインポテンツだ!と。

「嫌になっちゃったんだ。もう、疲れちゃったんだよ。」と呟いて喫煙の螺旋から抜け出すことを試みる人もたくさんいることでしょう。しかし、そこには大きな落とし穴が。「タバコ」なんて無機質な名前で呼ばれていますが、その実態は悪魔的なもので一度、螺旋に足を踏み入れると無限にループする階段を上り続けるが如く抜け道を探すには非常に困難なラビリンスに迷い込んだようなものです。

タバコに含まれるニコチンと言う名の悪魔は、心と体を徐々に侵食していきます。そして心と体がタバコに慣れた頃を見計らって、習慣と欲求の奥深くに中毒と言う名の種を撒き始めるのです。その種はほどなくして根をはり、芽を出します。その頃になるとタバコはすっかり日常の動作の一つになってしまっています。喫煙者は、気が付きません。その日常の動作の一つがタバコによる中毒症状だと言う事に。

そして、やっと気が付くことが出来るのです。「タバコを辞めたい」と思った時に。

そう思った時には芽はすっかり成長しきって立派な大木になっています。ニコチン大魔王と化した中毒性物質を含む悪魔は心と体を支配しています。

タバコの中毒性は非常に高いことで知らせています。

僕も幾度となく禁煙にチャレンジしたが、全ての勝負で敗北を喫した。「はいぼくをきっした」を変換すると"喫"の字が出るとは何とも皮肉なことだ。

しかし、僕はこの螺旋の抜け道を探しだしたいと思っている。この無限のループから抜け出したいと思っている。

そこで、宣言します。

「タスポ開始と同時にタバコを辞める!」

このブログで宣言するのは当然初めてだけど、今までにあちこちで散々宣言しては守れない誓いになっている。なので、今も尚、喫煙者であり、螺旋階段を登っている。

でも、この度は本気です。絶対に辞める。

どのくらい本気かって言うと、エロスに換算した場合、オブジョイトイに値するくらいの本気です。

【インリン・オブ・ジョイトイ】
別名:エロテロリスト
自らの肉体を武器に、世の中の男どもを性の奴隷として支配する。天性のフェロモンを身に纏い、類稀なるボディーとは対照的に、顔は実に童顔。

エロテロリストの異名を持つインリンに魅了されてしまった僕は、一時期どんな言葉の語尾にも「オブ・ジョイトイ」をつけていたくらいインリンにメロメロだった。

いや。そりゃね。僕だって最初は思いましたよ。エロスばかりを強調してメディアに露出するのは如何なものかと。でもね、週刊誌とかの表紙なんかに「ギンギン・オブ・ジョイトイ」なんて見出しが出てたら見るでしょうが。それこと雑誌が千切れんばかりの勢いでめくりますよ。体からはムンムンと妖しい光を発せられてですね、顔なんかは子供みたいな顔をしているじゃないですか。そのアンマッチな眺めが更にエロスを増幅させる訳ですよ。それはそれは大きな興奮に繋がりめくるめく官能の渦に飲み込まれる訳でしょうが。

でも、あれですよね。インリンってきっとMですよね。いや、M字開脚するから。なんてことじゃなくてですね、何となく分かるんですよ。生粋のM男の僕の嗅覚がそう言っています。「同じ匂いがするぞオブ・ジョイトイ!ネタは挙がっているんだ!」とか何とか言ってネタにしている訳なんですが。と、言うことでインリンと僕はM同士なのでプレイになりません。だからちょっと虐められたいから沢尻エリカなんか最高ですよ。じゃぁ、こんなのはどうだ。顔は小倉優子で性格は沢尻エリカ、体はオブ・ジョイトイ、かなり最凶ですよ。などと考え出すと出口のない螺旋に突入です。あっと言う間にラビリンスでしょうが。そうでしょうが。

とにかくだ。ここで改めて宣言することもなかろうかと思いますが、僕にとってエロスとはいつなんどきであっても脳を刺激し思考を活発にし、そして人生を豊かにするものなのですよ。これだけは誰に何を言われても譲れない。

で。

なんでこうなっちゃたんだっけ?

とりあえず一服して考えることにするおぶじょいとい。

2008年4月12日 (土)

たかが釣り、されど釣り

よーし。明日は釣り行っちゃうぞぉ。

と、言うことで釣りに行ってきます。メバル釣り。

明日のことを考えるとワクワクするのです。まるで心待ちにしていた恋人とのデートの前夜のような気分ですよ。

明日は昼過ぎから出発です。なので、釣りのアイテムを揃える時間は明日にでもたっぷりあるのですが、あまりにワクワクし過ぎて仕方がなかったの釣具屋に行ってきました。

釣りって不思議な道楽でしてね。目的としては魚を釣ることなんだけど、釣れなくても楽しめるものなのですよ。釣れたほうがもちろん楽しいけど、釣れなければ釣れないなりにいろんな工夫をしてみるのです。それが楽しいのです。粘って粘ってやっと釣れた時の感激は格別であまりに嬉しくて魚に話しかけ始める始末ですよ。

僕がやるのはワームと言う疑似餌を使っての釣りなんですけど、その疑似餌が海の中でどのくらいのスピードで進んでいるか、どのくらいの深さにいるのか、どのような動きをしているのか、どうやったらジャニーズJrに入れるか、などと考えていると時間があっと言う間に過ぎていくような気がするくらい楽しめる訳です。

小さなあたりも見逃さないようにするための集中力も必要です。釣り糸を、そして竿を通じて手元に伝わってくる繊細な感触を神経を研ぎ澄ませて感じとる必要があります。

メバルの場合、サイズが大きいほどあたりは小さいと言われています。大きいメバルは他のメバルからのプレッシャーを受け難く、競争相手も少ないためノンビリと捕食することができるからでしょう。

どうしても釣れないときはワームを変えてみることも有効です。大きさ、色、形を変えていろんな種類のワームを投入することにより魚の好奇心を煽り捕食のスイッチを入れさせるのです。

そうしてまた、頭の中でワームがどのような動きをしているのかを思い浮かべて、魚がアタックしてくることをイメージし、晴れてジャニーズJrに入りを果し、スポットライトを浴びる自分の姿を想像するのです。

もともと妄想癖のある僕にとってはまさにうってつけの道楽と言えましょう。思えば、釣りとは人生の縮尺図のように感じることができます。

恋などは、その典型で釣りとは恋愛、魚とは恋人と言っても過言ではありません。

相手の繊細な心の動きを察知する洞察力も必要です。そして反応が感じられない場合は、あの手この手で相手の興味を惹くことも重要です。メバルと同じように相手が大きければ、なかなか反応を示すこともないでしょう。そして、その反応は繊細なものが多く見逃してしまうこともあるかも知れません。時には駆け引きも必要になることもあるかも知れません。粘って粘って成就した恋は普段のそれよりも感激は大きいものになることは間違いありません。

もしも、それが例え叶わぬ恋だとしても、恋をしている瞬間は輝いていると思います。明日の自分に磨きをかけることができます。

大物を釣り上げるために。素敵な恋人を見つけるために。そして人生を豊かにするために。

僕は釣りを通じて恋を、そして人生を学んでいるのです。そんな気がするのです。

『たかが釣り、されど釣り』です。

釣った魚には餌はやらない訳ですが。

2008年4月11日 (金)

手の届かないもの

僕の部屋には耳かきが6本ある。耳の穴は2つなので、1つの穴に対して3本の耳かきがあることになる。

まぁ、穴に棒を突っ込むって考えただけでもゾクゾクして身悶える訳なんですが、耳かきをすると普段手の届かない耳の奥に触れることができるのが快感だったりする訳です。自分の手の届かないものに触れることが叶うツール。それが耳かきな訳です。

全然関係ないけど、耳の裏を擦って匂いを嗅いだら凄く臭い。
まぁ、それは良い。

綿棒なんてものも好きです。何故か僕の車には常備されています。銭湯に行くことが多い僕は車の中でも綿棒で耳をかっぽじっていたいのです。耳掃除に命をかけているんです。今、嘘ついた。

人間は非常に欲深い生き物らしく、手の届かないものほど欲しくなるものです。

例えば、アイドルなんてものもそうでしょうし、テレビのグルメ番組でやっているような高級店の料理もそうでしょう。

それらは人脈や財力と言ったツールで、手の届かないものを手元まで引き寄せられる可能性は十分あるのですが、欲求を満足させるためにはそれ相応の努力や運が必要になってきます。

そう言った欲求を最初から「手の届かないもの」と位置付けて、どこか自分を納得させている部分があります。そしてそれらの欲求を持ち続けることによって希望が持てたり、頑張れたりするものだから欲深いのも一概に悪い事ではないように思えます。

欲したものが全て手に入るのは恵まれたことかも知れませんが、欲したものを手の届かないものと位置付けたまま欲し続けるのも良いのかも知れませんね。

僕には「手の届かないもの」に触れることの出来るツールは耳かきだけで十分かも知れないな。と、思ったりするのでした。

それにしても6本も。僕はなんて欲深いんだ。

2008年4月10日 (木)

似非プロと最下層

初めて言葉を交わす人を疑ってかからないといけないなんて悲しいことだ。

随分昔の話しだが僕が実家に住んでいる頃に見ず知らずの人から僕宛に電話がかかってくることが度々あった。見ず知らずの人からの電話はどこかから僕の名前と電話番号を入手したセールスのものだった。

手法は全て同じで、電話で少し話して好奇心をあおり、そのまま店に招くといった感じのやり方である。僕のところに掛かってくる見ず知らずの人からの電話は100%女性だった。

セールスの商品はたいていが何かしらの会員権を買いませんかって感じのものでした。その会員になれば、南国リゾートに行く時に会員権を使うと、いくらか安く行くことができる、とかって感じのものだったようだ。

南国に行ってアロハを着ることよりも監獄に落ちて番号の付いた服を着ることのほうがリアリティのある話に感じられる僕にとっては無用の長物であることは間違いなかった。

とは、言えバームクーヘンを食べては口の中をからからにすることが唯一の楽しみだった僕宛に女性から電話がかかってくるなんてことは非常事態だ。全米も震撼ものだし興行成績も三週連続1位はかたいぞ。などと胸を小躍りさせたものだ。

ひょっとして中学校の時に密かに恋心を抱いていたあの子からかな。とか。僕の情報をどこかで入手した見散らぬハイソサイティからかな。とか。

少しドキドキしながら電話口に出たもんです。口の中だって緊張でパサパサだ。バームクーヘン要らずですよ。

そんな気持ちを知ってか知らずか、電話口の女性は開口一番、「○○さんですか?」と尋ねてくる。

考えてみて欲しい。知人からの電話で下の名前で呼ばれたことがありますか?あ、いや。普段から下の名前でよばれている人にとってはなんら違和感はないかも知れないが、僕のようなナイスガイは他人から下の名前で呼ばれることなんてない。下の名前で呼ばれている人にしても知人からの電話で「さん」付けで呼ばれることってないのではないでしょうか。

僕はない。

僕には兄がいます。僕たちが子供の頃には携帯電話などはなかったので友達との連絡手段は専ら家の電話でしたよ。そして友達から電話がかかってくるんですよ。「○○君いますか?」と。苗字で呼びます。そして電話に出た母がこう尋ねるのです。「どっちの?」と。そして友達は「弟のほう」なんて言うのです。この会話の中には僕の下の名前は登場しません。なので、開口一番、下の名前で確認をしてくる電話口の相手は知人でないことが予測できます。

僕は「またいつものかよ。」と自嘲気味の笑みを噛み殺して電話口の女性をハメ殺してやりたい気持ちになりながら会員権の話を聞く。

用意されたマニュアルを必死に覚えたのか、時折談笑を含めながらも話しをするのです。声も朗らかで活発な女性を頭に描きながらずっと話しをしていたい気分になります。ですが、別れの時は訪れます。一通り聞き終わった後、「いりません、行きません。でも・・・ありがとう」と受話器を置く。

実際にその会員権を買った知人がいて旅行に行ったときに使ったようだが、会員になるために支払った金額を取り戻すためには、かなりの回数の南国行きが必要だそうだ。監獄で言うところの懲役クラスの勢いが必要な訳だ。訳わからんけど。

男って奴は、女性には弱いものです。何だったら受話器越しの女性に恋をし、ほいほいと店まで出向いて会員権を買わされてしまったりするもんなんですよ。

そこにつけ込んだ商売が成り立ったりするもんだからやるせないものです。

兎角、男性は女性にカラっと騙されたりするものです。例えば女性の化粧なんてのにも騙されます。ひまわりの種みたいな顔した女性でも化粧をすれば太陽にこんにちはってな感じの向日葵に変身しちゃうもんですよ。今、うまいこと言った。そうでもないか。

まぁ、ゴリっと騙される。

他にはブラね。でっかくなっちゃった。って感じのブラジャーね。あんなもんね。もはや凶器ですよ。兵器ですよ。

しかし、だ。ここまで書いてきた"騙し"とは罪のないもの、と、言いましょうか。それどころか世の男性に対して一縷の希望を与えるものもあったりするので騙されて損をすることはないと思うんですよ。ちょっと得した気分になったり、時には幸せな気分を味わえたりするもんですよ。

最下層に位置する僕にとって軽蔑の対象となる人ってなかなかいないものです。

そんな僕が最も軽蔑すべき人間の行う行為。それが詐欺だと思っています。

殺人、放火、強盗ともっと凶悪で重大な犯罪もありますが、中でも詐欺をやらかす人間とだけは係わり合いになりたくない。

詐欺と言う犯罪は古今東西、存在しているものとは思いますが、時の移り変わりと共に、その形態を変え、その時代に沿った手口で人々を騙す手法も変わってきます。近年では『振り込め詐欺』などが代表格ではないでしょうか。

時には人の優越感に忍び込み、時には人の不安な気持ちに付けこむ。

詐欺の中には随分、手が凝ったやり口もあることでしょうが、どれも手軽にできてしまうイメージがあります。振り込め詐欺なんて電話一本掛けるだけだもんね。そんなもので何万円、何百万円を騙し取られた人がいると思うと気の毒で仕方がない。

TVのドキュメンタリー番組などでたまに詐欺の特集をやっていますね。そこで見られる詐欺をする側の人達の犯罪意識が非常に薄っぺらいもののように感じます。手口が簡単であればあるほど罪の意識は薄いものになっていっているような印象を受けます。そして、口々に「騙されるほうが悪いんですよ」などとのたまうのです。「俺は頭が良い」とでも言いたいのか知りませんが、やっていることは醜いことこの上ない。

そんなことをやってのけて一方では、そ知らぬ顔で普通の人と同じように生活を送っている。どう言う神経の持ち主なのか想像も及ばない。人として最低限なくてはならない何かが欠けているのだとしか思えない。

僕のおばあちゃんは常々「人からの信用は大事にしろ」と言っています。裏を返せば一度失った信用を取り戻すのは非常に困難であると、言うことでしょう。場合によっては復元不可能ともなることでしょう。

詐欺をしたことがある人、している人、しようと思っている人に言いたい。

汗水垂らして働けとは言いませんが、せめて人を騙すことは辞めてもらえませんか。と。そして人と関わることなくひっそりと一生を終えていってくれませんか。と。

これは良い案なんですけど、現実的ではないので、詐欺で逮捕された人達に永遠の屈辱と烙印を背負わせるってのはどうでしょうか。スキンヘッドって言うか永久脱毛するんですよ。で、頭にTATOOですよ。詐欺の種類によって文言を変えましょうよ。振り込め詐欺で捕まって人には『マルコメ詐欺師です。』なんて入れるんです。他には『刺青、入れました』なんてのも良いでしょう。入荷待ち状態だったことを知らせるわけです。永久に。

僕の職場は12階です。エレベータに乗って1人ぽっちだったのでコマネチを何回できるか試したこともある。監視カメラなんてお構いなしだ。

僕はバイク通勤です、信号待ちの時に横断歩道を渡る女性があまりにも巨乳だったから頭を動かさないようにして目だけで姿を追ったものもある。バックミラーに移る目線なんて知ったことではない。

僕は銭湯が好きです。塩サウナに入って塩を塗ったくってるところに小学生にくらいの男児が入ってきて塩を思い切り掴んでおチンロンに塗り始めたのを見て度肝を抜かれたけど、少年が塩サウナを出て行った後に僕もチンロンに塩を塗ったくったこともある。ヒリヒリしたけど後の祭りだ。

否定はしませんよ。言うてみたらクズですわ。人類のピラミッドの中でも底も底。最底辺に位置するクズですわ。しかも変態ですわ。

そんなクズな僕でも自信を持って言うことが出来る。詐欺なんてする人はクズだ!おチンロンにジョロキア塗ってやれ!

女性は、僕たちを幸せな気分にしてくれる"騙し"を自然とやってのける。それに引き換え詐欺師とは人を不幸にする"騙し"しかできない。そんなのは似非プロだ。

2008年4月 9日 (水)

Megalomania

こんなことを考えたことがありませんか。

この世の中にあるもの全ては自分の脳が作り出した虚像だと。

人や動物、山や海。建物に食料、太陽に酸素、時間や歴史。この世に存在するありとあらゆるものが、全て主人公の脳が作り出したもので日々起こっている全ての出来事も主人公が頭の中で思い描いたものである。

現実に存在するものは主人公だけ。他のものは主人公が作り上げた虚像である。と。

変なクスリでもやってんじゃないかってくらい突拍子もない妄想ですが、何だか知らないけど妙にそそられる妄想だ。

言うなれば、世の中では主人公を中心とし、その他の登場するものすべてのものが主人公が作り上げた架空のもので、その中でいろんなことが巻き起こっている。

その主人公を中心とした物語は、宇宙の誕生から始まり、壮大な時間を経て"主人公"が形成され、やっと物語の序曲を迎える。それらは主人公とは全く関わりのない場面でもシーケンシャルに活動していて、あたかも現実であるかのように物語を綴っていく。

当然、物語の主人公が絶命してしまうと登場する全てのものは消えてなくなり、舞台は幕を閉じることになる。

そして次の物語の幕が上がるのです。イチから始めると宇宙の誕生からになってしまいますので、序曲までは前回録画した物語を早送りで進めます。有効利用です。リサイクルです。

自己中心的な人を揶揄する言葉として「あんたが地球の中心だよ。」なんてのがあるが、それどころの騒ぎではない。

こちとら、地球どころか宇宙までも、それどころか時間までもを自分を中心にしてしまうほどの妄想なんだよ。スケールが違いすぎる。桁違いだ。オトトイきやがれ。

ごらんなさいよ。あなたが今見ているパソコンや携帯電話も主人公の脳で作り出した産物なのですよ。あなたが今、読んでいる日本語と言う文字も主人公の頭の中で生成された言語なんですよ。それどころかあなた自身も主人公の脳の中で作り上げられた人格なんですよ。今日、あなたの身の回りに起こったことは全て主人公の脳の中で作り上げられた出来事なんですよ。

そうそう。サトラレってマンガがあったじゃないですか。サトラレが頭の中で考えたことが、第3者の脳に伝心してしまうやつ。で、第3者達はサトラレにそのことを気がつかせないようにしないといけないってやつ。あんな状態だったらどうでしょう。主人公が自分以外のものが全て虚像だと気が付くことができないのは周りの配慮によるものだったらどうでしょう。

そんなことをカップラーメンを食べながら妄想していましたよ。

どうです。何だか怖いでしょう。そうでしょう。

そうでしょう。僕と知り合いになるのだけはゴメンでしょう。まっぴらでしょう。

僕も嫌だもんね、こんな誇大妄想壁のある30代独身男性なんかと友達になりたくないもんね。

でもね。

この文章を読んだ、あなたが"主人公"であることを悟ってしまったらどうしようかと考えるとハラハラドキドキもんなんですよ。

2008年4月 8日 (火)

反発心と青い春

今日から新一年生になった人も大勢いると思います。

僕には姪がいるんだけど、その姪も今日から中学一年生。

中学一年生には見えないくらいスモールです。嘘だけど、身長は僕の半分くらいしかないんじゃないかと思います。だから、嘘です。

姪が通う中学校は僕も通っていた中学校です。いろいろな想い出を作った場所です。姪も僕と同じように様々な財産を築き上げることになるのでしょう。僕の想い出も染み付いているであろう、あの校舎で。

思い起こせば僕は中学校の時は相当足りない子だったな、と思い起こしてみたものの今も変わらず足りてないのが無念です。

中学生にもなると少し色気付きだす多感な時期でもあります。大人の階段を上り始める準備をする時期でもあります。それ故に、それまでは対等に話すこともままならなかった大人に対して虚勢を張るかのように反発することも多々あることでしょう。そして交友関係も広がり遊びのスケールも少し大きくなります。そして、思春期と言う名の、この世で最も青く、そして最も美しい春へと突入するのです。

そこにはスポーツや勉学もあることでしょう。そこには友との物語もあることでしょう。そこには恋もあることでしょう。

今までに経験したことのないくらいの我武者羅な輝きが記憶へと刻まれていくことでしょう。

かく言う僕にも青い春が訪れたことがある。想像を圧倒的に上回る青さに目が眩みどうやって通り抜けたのかを思い出すことが難しいくらいの青い春。今にも途切れてしまいそうな記憶の糸を辿るとそこに僕の青い春がほんの少し顔を覗かせる。そしてそこにはスポーツ、勉学、友との物語、恋、そして・・・ウンコがあった。

僕は中学生の頃、ウンコ魔だった。中学生の頃って言うか今でもウンコ魔だ。脱糞だ。って感じで来る日も来る日も学校のトイレで大を駄々漏れ状態で垂れていた。しまいには学校はウンコしに行くところ、くらいに思っていたもんだ。休憩中だろうが授業中だろうが試験中だろうがお構いなしだ。

僕が「ウンコ」宣言をし、教師が「我慢しろ」とでも言おうものなら、その場で僕の体内で生成された汚物を放出し教室中を恐怖と戦慄で震え上がらせる空気を作ることも辞さない構えで望んでいた。僕の「ウンコ」宣言の中には人々を恐怖のドン底に叩き落す気構えと覚悟があった。ノストラダムスなんて目じゃない。

そうだ。それが青い春の中にいた僕の姿だった。大人から支配されることへの反発心の現われがウンコだったのだ。ウンコ魔の僕から見た大人は誰も彼も皆、敵だった。そしてウンコとは自由への扉のように感じるのだった。

僕は大抵のことなら我慢できる。帰れと言われれば帰ることもしよう。廊下に立ってろと言われれば立っていよう。だけど、ウンコを我慢することだけは絶対にしたくない。それをしてしまったら僕が僕である証しがなくなってしまうのだ。それこそ今までの僕に申し訳が立たない。

中学3年生になる頃、僕は大きな問題を抱えていた。

僕の学校は普通の教室の棟と音楽室や視聴覚室と言った特別な教室の棟は別の建物にあった。そして普通の教室の棟はLの字型の作りになっており、3年生には1階の教室が割り当てられていた。2階は2年生、3階は1年生と言った配置になっていた。そしてL字型の内側には、テニスコートが1つ入るくらいの広さの小さなグランドがある。トイレはL字型の縦棒の真ん中より少し先端よりに位置する。L字型の下の棒にあたるところには教室が3つある。1~3階まで全部合わせて9個の教室があることになる。テニスコート越しに縦棒の廊下は丸見えだ。なので当然トイレも丸見えだ。

そんな中、授業中にトイレに行こうものなら全9つのクラスから見えてしまうことになる。そして口々に噂されることになるだろう。「アイツ、いつもウンコ行ってるぜ」とか「あの人、ウンコしに学校に来ているんじゃないか知らん」とか「バファリンの半分はウンコでできているんだぜ」なんてことになったら僕の青い春は黄土色の春に成り兼ねない。いや、この際、僕は黄土色を甘んじて受け入れよう。しかし純白のバファリンまで黄土色に染めるのは僕には耐えられない。

そんなことで僕のウンコ魔時代は終わったかに見えた。

しかし、それはそれ。普通の教室の棟にあるトイレに行くから目立つのだ。特別教室のある棟に言って用を足せば何も問題なかとですよ。と、言うことでウンコ魔生活は中学どころか高校に行っても僕の大人たちへ対しての反発心がなくなるまで続くのでした。

今でも仲間達の間では口々に僕の勇士を称える賛辞を耳にすることができる。

姪が通う学校は僕が何度も何度も、本当に何度もウンコをした学校なのです。僕のたくさんの大事な思い出がや匂いや染み付いた学校です。

姪には大人になってから思い出すと情けなくならないようなたくさんの思い出を作っていって欲しいと願うばかりです。

2008年4月 7日 (月)

咲かない桜

桜。

Sakura
岩国の錦帯橋です。愛しのハニーと行ってきましたよ。

思えば彼女との出会いも桜の時でした。

様々な花がありますが、桜ほど日本人の僕たちに愛されている花はないのではないでしょうか。

桜。と言えば、華やかさも際立ちますが、なんと言ってもあっと言う間に散ってしまうイメージがあります。華やかさよりも短い期間で散ってしまう儚さに、人々の心に響く何かがあるだと思います。そう言った感性は日本人独特のものらしいです。

4月と言えばいろいろなことの節目になる季節でもあります。あたかも新しい門出を祝福してくれているように桜は咲いています。そしてあっと言う間に散っていく。まさに「咲き誇る花は、散るからこそに美しい」のでしょう。

花見に行くにあたって、彼女がお弁当を作ってくれました。「彼女」と登場させるのもなんなんでここではティーちゃんってことにします。ティーちゃんってのもなんか変なのでティーチャーにします。いや。やっぱしっくりこないのでチーにします。

チーはメタボ化の進む僕の「彼女」になるくらいなのでボランティア精神が旺盛って言うか、マゾって言うか、変態って言うか。。。あ、言い過ぎた。まぁ心の優しい女の子です。いつか二人で999に乗ってメタボの体を手に入れる旅に連れてってあげようと思います。

この度は999が迎えに来てくれなかったので、車で岩国の錦帯橋に行って来ました。そして、桜の木の下でレジャーシートを広げて弁当ですよ。こんなのやってみたかったんだ。メタボのクセに。

んで、チーの作るものは何でもうまい。それはさておき僕は何を食べても「うまい」としか言わない。こんなんのために早起きをして弁当を作ってくれたチーに申し訳がないような気持ちでおにぎりを美味しく頂きました。

美味しく頂いている最中に一片の桜の花びらがヒラヒラと落ちてきました。それを見て少し胸がキュンとなるのを感じました。そこにもう一片舞い散る。同時に胸に何やらじんわりと優しく締め付けるような感覚があります。刹那さを感じずにはいられませんでした。

それはそうと、チーは可愛いし料理もうまいし物腰も柔らかいし喉越しもスッキリって感じの娘っ子なんだけど、一つだけ大きな欠点がある。

それは、ドジなんです。それもドが付くほど。ド・ドジですよ。普通に道を歩いてても気が付いたら躓いてる。5回に1回くらいは躓いてますよ。あとは、何か物を取ろうとすると2回に3回くらいは落としてる。最初の桜の頃には、そんなチーを見るとドギドキしたものです。

まぁ、僕も人のことをとやかく言えたものではないですよ。僕の欠点を書きだすとキリがないので、長所を書いてみます。歯並びが良い(上の歯だけ)のと何喰ってもうまいって言うこと。それ以外は全部欠点ですよ。欠点って言うかね、もう、残念ですよ。

そんな僕と一緒にいるチーが不憫で仕方がありません。

しかし、どうやら僕らは結構しっくりきているようです。お互いがお互いの欠点や残念をうまくカバーし合っている。時には見て見ぬふりをし、時には指摘し衝突し、時には認めて受けとめる。

僕らは桜のように華やかに咲き誇ることはないだろう。でも、それで良いんだ。散ることもないだろうから。

僕らは咲かない桜になる。

チーと出会って3度目の桜。

今日も歩くと躓き、物を落とすチーを見ては、儚さ、刹那さを感じずにはいられなかった。

2008年4月 6日 (日)

趣味を通じて

ほら。僕って釣りが趣味じゃないですか。

いきなりこんなことを言っても初めてこのブログを訪ねてくれた人には何のことかわからないと思いますが、釣りが趣味なんです。

釣りが趣味になった理由は「苦手を克服」と言った具合です。

そんなことで釣りが趣味なのですが、僕は何か趣味をやると結構道具に凝るほうで釣具屋などに通い詰めるようになってしまいます。なんちゃってなので仕方がないことです。ちょっとでも良い道具を使いたい、と言う気持ちと道具を買ったら続けざるおえない、と言う気持ちがありますな。この際、その道具を使うに値する腕の有無は度外視です。

そんなことで今日も釣具屋へGo。

ノコノコみたいなのがキャラクターの釣具屋です。広島の西にあって結構大きな釣具屋です。

今日、入手したいものはワームです。疑似餌です。今日のメバル釣りに使うためのワームを買いに行きました。

何だかいろいろ種類があってどれが良いのか迷ってしまいます。形や色で決めれば良いのですが、僕みたいな、なんちゃって野郎にはどれが良いんだか分かりません。

で、です。匂いつきのワームを買ってみることにしました。そのワームは組み立てる前のプラモデルのように型にひっついたままで売られています。袋の中には不思議な液体が入っています。これが、よっちゃんイカみたいな強烈な匂いを放つ。見るからに体に悪そうな色をしている液体に浸けられたゴム状のものと釣り針を持って店内をウロウロします。

こう言う小物を持って店内をウロウロするのって好きじゃないです。何故かって言うと万引き犯に間違えられたらどうしよう、なんてドキマギしてしまうからです。あまりにもドギマギしすぎて手にした小物類をポケットの中に入れたりしちゃったらどうしよう。なんて考えるとおちおちウロウロもしてられません。

僕は盗人みたいな顔をしながらレジに向う。

そして、僕のハートが盗まれた。

そこにおられるレジの女性に心を万引きされました。「ご自由に一目惚れしてください」って書いてあったもん。もうね。居直り強盗ですよ。店ぐるみでやってんだよ。盗賊ですよ。

多分、広島で釣りをする人なら一度は行った事ある釣具屋じゃないでしょうかね。そして、僕みたいにハート泥棒に胸キュンのアングラーは少なくないはずだよ。その娘は言ってみたら田中麗奈をもっとなっちゃんにした感じで、安藤美姫をもっとミキティにした感じの娘なんですよ。もうね、なっティって感じでしょ。訳わからんけど。

僕はレジを打つその娘の顔をチラチラと盗み見しました。万引きです。しかし、こっちはハートを強奪されたんだ。そのくらいは可愛いもんだ。このキャッツアイが。などと思って開き直ってガン見しましたよ。そうすると彼女は少し気持ち悪いものを見るような顔をしながら僕にお釣りを渡すのです。手が触れないように。一連のレジ作業が終わり僕は後ろ髪をひかれる思いで店を出ようとするのですが、レジの横に釣りの情報誌がおいてあるのに気がつきました。

僕はとりあえず本を読むフリをしてキャッツアイをまたしても盗み見します。店を出てしばらくすると後ろから万引きジーメンに声を掛けられはしまいかとドキがムネムネしながらもまたしても盗み見ですよ。

彼女はレジ脇で何やら作業をしています。本棚の置いてある角度からでは顔が見えないではないか。などと、思ってたら欲しくもない雑誌を手にしてレジに行く僕がいた。そしてまた手に触れないようにしてお釣りを渡すキャッツアイがいた。

僕は釣りが趣味です。趣味を通じて楽しみが、また一つ増えました。

2008年4月 5日 (土)

苦手を克服

ほら。僕って釣りが趣味じゃないですか。

いきなりこんなことを言っても初めてこのブログを訪ねてくれた人には何のことかわからないと思いますが、釣りが趣味なんです。

去年の夏くらいに会社の先輩にチヌを釣りに連れてってもらった訳なんですよ。それで、初めて行った日に2匹釣ったんです。2匹共、40cmくらいの大物でしたよ。それ以来、釣りにはまった訳です。

しかし、僕はチキンなので魚が触れません。魚臭くなるのが嫌。なんてものではなくて、怖いのです。小さな生物が怖いのです。

昆虫も苦手です。子供の頃はセミを捕まえるのに躍起になってた時期もありましたが、セミが網に掛かっても捕まえることが出来ないのです。セミなんてマジマジと見るとエイリアンみたいな顔しているじゃないですか。そんなものを触るなんてトンでもないことですよ。あの「ミ、ミ」って鳴き声も何だか不気味です。それに一週間の命を虫かごの中に閉じ込めるなんて残酷なことは僕にはできません。菩薩のような心を持った僕には無理だ。と、良い人ぶってみたけど、やっぱ触れないから虫かごに入れなかっただけだ。

その点、魚は鳴かないので昆虫よりはマシなのですが、どうしたものか触れません。釣れた魚を持って帰るにしろ、逃がすにしろ針から外す必要があります。なので、「釣れる」と言うことは必然的に魚に「触る」と言うことになるものですから困りものなのです。

そんな時に出合ったのが、イカでした。アオリイカ。

イカは良い。触らなくてもクーラーボックスに入れるなり海に返すなりと言うことが簡単にできるんですよ。

イカは餌木と言う疑似餌で釣ります。餌木は海老のような形をしていて尻尾の部分に針が付いています。針と言っても通常の釣り針とは違ってカエシがありません。カエシと言うのは針に掛かった魚を逃がさないようにするために針の向きとは反対側に向いている小さな針のことです。餌木には、そのカエシがない。

何故カエシが必要ないのかと言うと、多分こう言う理由。

イカと言えば墨ですよね。その墨は10本の足の中にある口から吐くんだけど、墨を勢い良く吐くとジェット噴射のような効果で頭側の向きに高速で移動することができます。餌木に掛かったイカは逃げようとジェット噴射を繰り返すのですが餌木の尻尾部分の針に足が絡まり逆効果となります。逃げようとすればするほどドツボにはまる。それはさながら蟻地獄のような感じ。言うなれば有刺鉄線に絡まった大仁田厚のように痛々しい光景です。

ま。とにかくカエシがないから触れることなく針から簡単に外すことができるって訳です。そんなことで魚が触れない僕でも魚が釣れても困ることがないってことですよ。

ちょっとでも釣りに興味のある方ならわかると思いますが、今はメバルのシーズンです。と、言うことで今はメバル釣りに興じているのです。メバルは触らないと針から外すことはできませんが、そこはそれ、針外しようにペンチのようなものを持参して行きます。

僕はソフトルアーで釣りをしています。ワーム。

ワームと言うのはゴムのような素材の疑似餌で小魚のような形をしたものから昆虫のような形をしたものと様々なものがあるのですが、これで釣ることになります。餌と違って手が汚れないし釣りに行く度に釣具屋に行く必要がないので手軽にできるところが良いところです。

で、このワームを使っているせいかどうかはわからないんだけど、メバルを釣り上げてもメバルに触ることなく針から外すのが、あまり難しいことではありません。これならば僕でもOKです。

と、言う訳で魚を触れない僕にとって「魚釣り」が趣味になることなんてない、って思っていましたけど、やってみると何とかなるもんだな、と思うのです。

今まで苦手としていた分野でも正攻法ではないにしろ自分なりのやり方を見つければ苦手意識を克服することができることって結構あるのではないかと思うのでした。

次はペンチを使わずに魚を針から外すことを目標にしています。

が、魚が釣れないことには練習できない・・・

2008年4月 3日 (木)

170cmの愛情

唐突ですが僕の身長は170cmです。

今日の記事は、ネット上で見た受け売りを含みますが、自分なりに解釈したものを書いてみます。

みなさんにも2人の親がいると思います。父親と母親。幸いにも僕にも2人の親がいる。そして健在です。

両親と一緒に暮らしている頃には、あまり実行することができなかったのですが、最近少しできるようになってきたかも知れない、って思えるんです。親孝行って言うんですかね。まぁ、たいそうなことはできてはいないんだけど。

一緒に暮らしている時は、何だか照れ臭くてできませんでした。そして何より大きく勘違いしている節がありました。図々しいことに両親は僕のためになら何だってしてくれる。そして、何かをしてもらうことが当たり前だと思っていました。誤解を恐れずに書くと、「両親は僕のために生きている」くらいに思っていたかも知れません。

その考えは当然のことながら不正解なのですが、やはり親には甘えたいものです。

僕の家は裕福ではありません。経済的には貧弱な部類に入ると思います。しかし、僕が前途の誤解を産み出してしまう程、愛情に関しては中流階級並みに裕福な家庭でありました。

愛情と甘やかすことを混同してしまいがちだが、僕の家は所謂、甘い家ではなかった。極端に放任主義の父親と怒り狂うと手がつけられない暴君と化す母親の間に挟まれての生活だった。

今まで人生の転機で両親に相談をしたことがあまりない。相談しても「自分が良いと思うことをしたら良い」と言う答えしか返ってこないことを知っていたので、いつも自分で決めてきた。考えようによっては何でも好き勝手できると言う事にも繋がるが、自分でやったことに自分で責任を取る覚悟も必要だ。

子供の頃の僕は今よりも、もっと軟弱で何かに支えられていないと立っていることすらままならないほど頼りない足で歩いていた。今でも優柔不断で決断力に優れているとは言い難いが、それでも何とか自分の足で歩いている。

そんな僕を築き上げることができたのは父親の放任主義であり母親の怒号であったことは揺ぎ無い事実だ。

今の年齢になってやっと両親に今まで受けた恩を少しでも返したいと思うようになった。両親からそそいでもらった愛情を少しでも返したいと思うようになった。

父親が昔こんなことを言っていた。「親よりも一日でも長く生きれば、それが親孝行だ。」と。

それが、親孝行だとしたら自分の意志で実行できる孝行など知れている。楽しませたり喜ばせてあげることは、ちょっとの努力で誰にでも出来るだろう。でも、どんなことをしても両親より1日でも長く生きることよりも大きな孝行が思い浮かばない。

僕の身長は170cm。両親からそそがれた愛情で大きくなった僕。

楽しませたり喜ばせてあげることで半分の半分くらいの恩を返せるだろうか。42.5cm。

そして両親よりも1日以上長く生きることで半分の半分くらいの恩を返せるだろうか。42.5cm。

両親が生きている間に返せる恩は、僕が両親にそそいでもらった愛情の半分くらいなのではないだろうか。計85cm。

あとの半分はどこに返せば良いんだろうか。残85cm。

その半分は自分の大切な人や関わりを持った人達にそそいであげれば良いのではないだろうか。残85cm。

それは友達だったり、恋人だったり、奥さんだったり、旦那さんだったり、おじいちゃんだったり、おばあちゃんだったり、子供だったり、隣人だったり、見知らぬ人だったり。全部で170cmになるのではないだろうか。

きっと僕の両親も僕の祖父や祖母にそそがれた愛情を全て返せてはいないと思う。祖父、祖母からそそがれた大事な愛情を僕にそそいでくれたのではないかと思う。

僕らは愛情のバトンをリレーする。

2008年4月 2日 (水)

新しい春

春が来た。

のんべんだらりと日々を過ごす僕にも春が来るものです。春と言えば卒業、入学のシーズンです。そして社会人の間でも異動や新入社員の登場などで数々の別れと出会いが始まります。

別れを「終わり」と考えてしまうとセンチメンタルになってしまいますが、全ての出来事を「始まり」と思い、日常を過ごすとちょっぴり幸せな気分で過ごすことがでいます。未来にほんのり希望が持てるような気がします。別れは出会いの始まりであり、出会いは別れの始まりなのでしょう。

出会いと別れは無限の「始まり」ループの中の一部の事象で、その他の出来事も全てが終わりのない「始まり」の中に散りばめられたエピソードの一つなのではないでしょうか。

何故かウキウキしてしまう春。それはあちこちから香る新しい匂いのせいなのかも知れません。いつもの通勤の道を通っている時にもどこからともなく新しい香りがします。あちらこちらに「始まり」が見受けられます。

真新しい制服を身に纏って歩いている学生。着慣れないスーツで頼りない新入社員。それぞれが胸に不安と希望を持って、新しい気持ちで歩を進めています。そんな彼らを見て新鮮な空気が流れ込んでくるのを感じます。

何年も前に自分も同じことを経験したんだけど、今ではこの季節に少し思い出すのがやっとです。

不安や希望がたくさんあった。そんな気持ちをほんの少しだけ思い出せるこの季節。新入生や新入社員だけではなく、僕たちにとってもまた新しい"何か"の予感を感じることができます。

今日、職場で朝礼ならぬ昼礼なるものがありました。何でも、他所の部署からお偉いさんが異動でやってきたってことで紹介を兼ねての昼礼です。

50代おぼしき中年男性がやってきて、「新しい職場でフンドシを締めなおす」的な勢いで鼻息も荒く自己紹介をしていました。しかし、悲しいかな新しい匂いは漂ってきませんでした。んで、自己紹介がやたら長いのな。僕は「話しの終わりが始まれ。終わりが始まれ」などと頭の中で反復しながら話しが終わるのを心待ちにしていました。

と、言うのもいつもなら空席の机の新しい顔が気になって仕方がなかったのです。
これが女性なんですよ。背が小さくてちょっとぽっちゃりと言った感じで雰囲気がかなり良い。何が良いって言われてもなんだか分からないけど兎に角、良い。同じグループに所属しているんだけど接点がほとんどないので触れ合うことがないのが残念です。

そんな可愛らしいニューカマーの出現で普段はのんべんだらりと過ごしている僕の仕事にも身が入るってもんですよ。そしてチラチラ盗み見しますよ。この盗人が。もうね、チラ見のシーフですよ。顔とかを舐め回す様に、そして時にはガン見ですよ。あんだけ見たらいくらなんでも不自然だろってくらい見ましたよ。盗賊なんですよ。

春の陽気に誘われて頭の中もヤバイことになっていますよ。

だってあちこちから新しい匂いがするんですもの。
だって中年男性の話が長いんですもの。
だってニューカマーが可愛らしいんですもの。
だって桜がピンクなんですもの。

そんな感じで、僕のところにもいつもと変わらないけど新しい春が始まった。

2008年4月 1日 (火)

いざ

春。

なぜか陽気になる季節です。

桜が咲き誇ります。。

出会いが溢れます。

そんな感じで経多雨の毎日。いざ、参ります。

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