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2008年8月

2008年8月31日 (日)

気持ちの寄せ集め

何が地球を救うんでしょうか?

僕は500円玉貯金をしていました。500円玉がたくさん欲しいので買い物をする時なんかに500円玉がお釣りでくるように支払いをするんです。そして財布の中の小さなポッケに忍ばせておきます。多い日には4~5枚の500円玉が小さなポッケに入ることもありました。財布がパンパンになる頃に貯金箱に移します。いっぱいに入れたら30万円貯めることができる貯金箱を何度かいっぱいにしたことがあります。

そんな訳で僕の財布には常時、数枚の500円玉が貯金箱に入るのを心待ちにして待機しているのです。

街中や大きなショッピングモールでちょいちょい行われている街頭募金。僕は常備している500円玉をそっと募金箱に入れる。それがどんな類の募金だろうと関係ない。とにかく財布の中に500円玉がある限りは募金箱に500円玉を1枚入れることにしていた。僕が募金箱にお金を入れる動機としては僕の財布の中に500円玉があるから、と言う以外の理由はなにもない。

そうとは言え、もちろんどこかの誰かのためになっているかも知れないと思えば何やら良いことをした気分にはなる。僕の500円が、どこかの誰かのためになっているかも知れないと思えば少し嬉しい気分になる。

しかし、募金をする時にどこかの誰かのためになると思って行うのならば非常に無責任な真心だ。募金を必要としている人がどれほど困っているのかわからない。どれほどのお金が必要なのかもわからない。下手したらなんのためにお金が必要なのかもわからない場合もある。果たして募金をすることで助かるのかもわからない。

募金を必要としている人に届いていることを確認することなく僕は「何か良いことした」気分になる。

そう。きれいごとを一切省いてしまうと募金とは自己満足に他ならない。僕の「良いことをした」と言う気持ちを第三者の手に全面的に託して必要としている人に届けてもらうことで自己満足をしているのだ。第三者の手に託した時点で誰かのためになっているかを見届けることなく自分の頭の中で勝手に作ったイメージで誰かの役に立っていることを思い浮かべて少し嬉しい気分になったりしている。

極論、誰かのためになるかどうかなんて知ったことではない。僕は自分の自己満足のために500円玉を募金箱に入れる。もちろんその結果、誰かのためになれば嬉しい気分にはなるだろうが、第三者に託した時点で僕の500円玉が本当に困っている人の手に届き、役に立ったかどうかを知る術はないのだから想像の域で勝手に嬉しい気分になる以外のことはできない。他人に対して真心で行う行為であれば募金以外の手段を選ぶだろう。第三者に託す真心とは非常に無責任なもので真心と呼べる代物ではないように感じるのだ。

他人に対して真心で行う行為ともなれば、それこそ、ごくごく身近な人にやってあげたい。それは友情や愛情や情けと呼ばれるもので送り手が受け手に対して十分に感情移入できる間柄でないとそう言った気持ちになることは難しい。

どこか遠い国で貧困に困っている人がいる。どこか遠いところで手術の費用が足りなくて困っている人がいる。

そんな事柄に心からの真心を届けることができるとしたら同じ境遇にいる場合だろう。しかし、同じ境遇にいるとすれば自分のことすら間々ならない状況だと考えられるため募金などの行為は難しいと思われる。

受け手のことを考えるのであれば受け手が望んでいるものを送って上げられる行為が何よりもの助けになるだろう。寒さに耐え忍んでいるのならば衣服や毛布。飢餓に苦しんでいるのであれば食料。渇水で水源が涸れているのならば水。病原体が蔓延してのならば医療。金銭的援助が必要であるならばお金。

僕らがそれらを届けるのは大抵の場合が見ず知らずの人々へ向けてだ。故に感情移入はそれほどのものにはならない。第三者に託す以外の方法を使ってまでそれらを届けるだけの気持ちもない。真心と呼ぶにはおこがましく感じるほどの気持ちしか届けることができない。だから気持ちが届くように、なんてことを期待してはいけない。もしもそれを期待するのならば実際に送ったものが届くところを見届ける必要があるのではないだろうか。

今、現在、24時間テレビなるものが放映されている。

時計が回ったので昨日の話になるが知り合いから電話があった。内容は「チャリティーをやってる場所を教えてくれ」と言う話だった。僕は30余年間生きているので過去に24時間テレビを何度も見たことがある。なので知っている。チャリティーをやっている場所なんてあちこちにある。それこそちょっと大きな駅にでも行けばテレビ中継などの場所にはなってはいないかも知れないが募金箱くらいは置いてあるんじゃないだろうか。電話の主もきっと知っていたはずだ。

僕はふと思った。「この人は僕以外のあと何人の知り合いに電話をかけてチャリティーの場所を聞くんだろうか?」と。僕の卑しい心は、電話の主が「わたし、募金してきます」って言っているように捕らえてしまったのだ。僕の中では「募金は自己満足」で完結しても良い事柄だと思っているので他人に対して「おれ、募金してくるよ!」なんてことを言うことではないと思っている。

彼は自己満足を得るだけでは足りなかったのだろうか。困っている人に何かを援助したと言う優越感を感じたかったのだろうか。そしてそれを誰かにアピールしたかったのだろうか。

募金なんてものはお金さえあれば誰にでもできる。僕のように自己満足をするために募金をする人にもできる。自己満足で完結できない人にでもできる。そして第三者に託した結果、受け手にはとっては必要な品物が届くような気もする。

寒さに耐え忍んでいるのならば衣服や毛布。飢餓に苦しんでいるのであれば食料。渇水で水源が涸れているのならば水。病原体が蔓延してのならば医療。金銭的援助が必要であるならばお金。

必要なものは届くだろうけど僕らは見ず知らずの人に対して送るものに真心と呼べるほどの気持ちを乗せることは難しい。

少し話しは飛躍するが、愛とお金は両極に存在するもので天秤の片側に両方が乗ることはできない。得てして右翼と左翼に分けられて乗せられて秤に掛けられるものだ。

テレビなどを見ていると募金などの受け手が感動している場面などを目にすることがある。「こんなにたくさんの気持ちをありがとう」なんて言っている。それは良い。それは分かる。見ず知らずの人に援助されたりして助かるのならば非常に嬉しいことだろうし感謝の気持ちでいっぱいになるに違いない。

しかし、そこで勘違いしてはいけない。送り手は「自分の気持ちが届いた!」なんて思って感激するのだが、果たしてそれだけの気持ちを乗せたのか甚だ疑問だ。美しい場面を台無しにするようなことを言って大変心苦しいが真実ではないだろうか。

送り手の自己満足の行為の結果、受け手が感激してくれた。そしてそれは自分の気持ちが届いたからだ。なんてことを思っている人がいるとすれば偽善者だと思う。乗せてもいない気持ちが届く訳がない。勘違いしてはいかん。それだけ人に感謝されても良いくらいの気持ちを乗せたものを届けるつもりならば、せめて第三者の手に委ねるような手段は選ばないはずだから。

誰かのためになるかどうかなんて知ったことではない。僕は自分の自己満足のために500円玉を募金箱に入れる。もちろんその結果、誰かのためになれば嬉しい気分にはなるだろうが、第三者に託した時点で僕の500円玉が本当に困っている人の手に届き、役に立ったかどうかを知る術はないのだから想像の域で勝手に嬉しい気分になる以外のことはできないが僕は募金箱に500円玉を入れに行ってみようと思う。

僕は地球を救う気は更々ない。僕の自己満足のために行う行為なので、そんなに大きな気持ちは乗せられない。しかし、そう言った気持ちの寄せ集めが大きな真心を生み出しているのかも知れない。

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2008年8月 8日 (金)

希望の香り

明日が来るのが当たり前だと思っている。

当然のことながら今日が終われば明日になる訳なんだけど、明日ってのは何故だか今日よりも良くなってんじゃないかって何の根拠もなしに希望を持ったりするものだ。

夜の帳が降りて辺りが暗闇に包まれる頃、明日を迎える準備を始める。そして今日が終わる頃に夢の中に堕ちていく。翌朝目覚めた時に突如として天才になってやしないか、大富豪になってやしないか、はたまた明日になってないんじゃないか。そんなことを思いながら眠りに就く。

僕は30余年生きてきたが今まで期待した明日が来たことがない。朝目覚めた時、いつもと同じ朝だ。天才にはなっていないし大富豪にもなってない。ところが、明日にはなっている。今日は、やはり"明日"になっている。

子供の頃、大人になりたいと願ったこともあった。その頃は"明日"の繰り返しで大人になるものだと思ってはいなかった。

大人に成りかけた頃、大人になんかなりなくないと思ったこともあった。だけども"明日"には何かしら希望があるような気がして毎日、明日が来るのが楽しみだった。

大人になりたいと願った子供の頃も、大人になりたくないと思った半大人の頃も、明日になることを望んではいたものの今日を生きるのに精一杯で明日を迎える準備など到底できるものではなかった。いつも気がついたら"明日"になっていた。

そして今、どうやら何回も"明日"を繰り返すうちに大人になったようだ。昔、あんなにも望んでいた明日だったが、望まなくても"明日"になることを知った。今日が終わる頃、明日を迎える準備をすることもできるようになった。そして明日は今日とそう変わりない日で、天才にもならないし大富豪にもならないこともわかった。だけど、必ず"明日"になっていることを知った。

繰り返しの毎日にちょっぴり失望しながらも、どこか希望の香りがする明日を迎え入れる。

当然のことながら"明日"になると言うことは時間が経過していると言うことになる。僕の余命がどのくらいあるのかはわからないが、生命にはタイムリミットがある。言うまでもなく時間の経過とは生命の終わり向かっていることと同義だ。

"明日"とは希望なんかじゃないんじゃないか?終わりに向かっているとしたらできれば向かいたくない。天才にもなれない、大富豪にもなれないとわかっているんだから"明日"なんかこなければ良いのに。

どうせ明日になったって今日とそう変わりない1日になるんだ。終わりに近付いてしまうくらいならずっと今日のままでいれれば良いのに。

そんなことを考えながら明日を迎える準備を始める。

どこからともなく暗闇がやってくる。そして僕の住んでるところとは別のところでは太陽が昇り朝を迎えた誰かはおそらく天才になってはいないだろうし大富豪にもなってないだろう。いつもとそう大差ない1日を過ごすのだろう。

そんなことを考えながら明日を迎える準備を始める。

眠りに就く頃、どこからともなく希望の香りが漂ってくる。

翌朝目覚めた時に突如として天才になってやしないか、大富豪になってやしないか、はたまた明日になってないんじゃないか。そんなことを思いながら眠りに就く。

おそらく朝目覚めた時、いつもと同じ朝だ。天才にはなっていないし大富豪にもなってない。ところが、明日にはなっている。今日は、やはり"明日"になっている。

だけども何だか明日は良い1日になるような気がする。

そんなことを考えながら二度と繰り返されることのない今日に別れを告げて、新しい希望の香りのする明日を迎える。。

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