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2008年9月

2008年9月15日 (月)

廻れお寿司

僕だってお寿司が食べたい!

そんな感じで給料が入ったばかりだってのを良いことにお寿司を食べに行くことにしたんですよ。僕だってたまにはラーメン以外のものを食べるために外食をしたいってなもんですよ。

僕は味覚やらがバカなので何を食べても美味しいと感じることができるのですが、お寿司だって食べたくなることもある。

廻る寿司が大好きなので、その日も行き着けの廻る寿司屋に行きましたよ。

そしてこの度は学んだことがある。お寿司を食べて逆にお金をもらえることがあるってことを。

「廻る寿司」とかって言いながらも結局は内側にいる板さんに注文する。目の前に廻っている寿司を取ったことなんてあまりない。どうやら廻るお寿司の人気はこの辺りにあるらしい。

僕らのような所得の低い階級の日本人はお寿司を高級な食べ物の代表として位置付けることが多い。

多くの廻る寿司屋では客に食べさせることが目的で寿司を廻している訳ではない。目の前に廻っているお寿司を取るのはもちろん自由なんだけど、わざわざ板前さんが目の前で握ってくれるのを食べることによって自分が上流階級に仲間入りしたかのような錯覚させることが狙いだ。そうすることによって食すことの満足感を与えると同時に、ブルジョワジーな気分を味わってもらうことを目的としている。そのことからも分るように、廻る寿司屋は味への満足度が高い店よりも精神的な満足度が高い店のほうがリピート率が高い。

だらだらと偉そうなことを書いたが全部僕が勝手に思っていることです。

その店はかなり大規模な「廻る」が設備されており店内には注文を聞くための店員がいたるところに配置されている。その日も思いつくままに注文した。

僕は余程の貧乏性らしく思いつくままに注文したはずなのに黄金色に輝く300円皿は一枚も注文していなかった。テーブルには、白い色で人をおちょくっているかのような魚の絵が書かれた皿ばかりが積み重ねられている。

1ターン目の注文の品をたいらげ2ターン目に突入。店内をうろつく店員の一人を捕まえ注文する。

イカが食いたい!ってことでイカ明太なる軍艦を頼むことにしたんですよ。店員は注文用紙にメモを取っています。そうしていると左の腕に鋭い痛みが走ったのです。

左腕を見ると半袖の袖の部分に青いインクが。明らかに店員が持っていたボールペンのインクから刻み付けられたであろう青い刻印が僕の左腕に記されている。

店員は僕に青い刻印を刻み付けたことを気付いた様子だったのですが、「何かありましたか?」と言った具合のすまし顔で僕の腕を見て店内業務に戻る。

ナニか?じゃあ、この店はアレか?100円の皿しか頼まない客には青い印をつけるってか?100円皿の刻印か?

もぅ、ねぇ。正直青いインクがついてることなんてどうでも良かったんですよ。100円皿の山の中に200円皿が数枚混ざっていることを声を大にして伝えたかったのですよ。「おれは本気出したら200円皿だって頼めるんだぞぉ」って。

2ターン目の注文の品が届く頃には僕の心は荒みきっていました。『そうさ。僕は給料が入ってたまにする外食、しかも寿司を食べにきたと言うのに100円皿しか頼めないほどの小さな人間さ。』そんなオーラがムンムンと出てたに違いない。

そうそう。さっき注文した「イカ明太」だって頼んだ覚えのない「梅クラゲ」に化けて出てきたけどそんな関係ない。なんせ僕は青い刻印を刻まれた100円皿の男なんだから。

失意の中、「イカ明太」ならぬ「梅クラゲ」を食していると先ほどの僕に青い刻印を刻み付けた店員が寄ってくる。

「もし?あなたの左腕の刻印は私が刻み付けたものではなかろうか?」と。

僕はこう見えて身の程を弁えている。100円皿の男の刻印は甘んじて受ける。そうだ。僕が卑しくもお寿司などを食すことがそもそもの間違いなのだ。家で、すし太郎でも食べておけば良かったんだ。なんか返って悪いことをしたね。そんな気持ちでいっぱいだった。店員には「そうだけど、気にしないでください(僕は100円皿しか頼まないのだから・・・)」と伝える。

そうすると店員は「大丈夫ですか?今、上のものを呼んできますんで。」そう告げると店員はどこへともなく消えていった。

僕はそんなのはとうの昔の出来事のように感じて3ターン目の注文を済ませた。

今度は頼んだ通りの品物(100円皿)が運ばれ「美味」などと舌鼓を打ちながら口の中にほうばる。

そうしていると先ほどの店員と上のもの(店長)がやってきて「どうもすみませんでした」ってなもんで謝りにきた。僕のほうはお寿司を食べるのに夢中で正直煩わしく感じたが以外にもあっさりとした謝罪で僕の食事を妨げるものではなかった。

しばらくして上のものがやってきて何やら封筒のようなものを僕に手渡してきた。「大変申し訳ありませんでした。クリーニング代です。引き続きの食事(100円皿)を楽しんでください。」

そんな感じでお金をもらった。100円皿の刻印を押されたのは屈辱だったけどお寿司を食べに行ったら逆にお金をもらえることだってある。

時を同じくしてうちの実家では甥の誕生日と言うこともあり一家で焼肉を食べに行ったようだ。柄にもなくブルジョワジーみたいな生活をしてやがる。なんて思ったものです。

翌日、実家に晩御飯を馳走になりに赴いた。

「すし太郎」でした。

きっとうちの家族も焼肉屋で何らかの刻印を刻み付けられたに違いない。
すし太郎は、みんなに平等に優しいんだ。

「ありがとう」

僕はそっと呟いて、白い色で人をおちょくっているかのような魚の絵が書かれた皿にすし太郎を大盛りに盛った。

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2008年9月10日 (水)

イマジネーション

想像力と言うのは非常に大きな武器であり防具である。

イマジネーションにはいろんな種類があるが大きく分けて2つの種類に分類される。1つは成功した姿を想像するイマジネーション。もう1つは失敗した姿を想像するイマジネーションと言った具合である。

人間の想像力と言うのは非常に豊かなもので実にいろんな事柄を頭の中で創造するものである。期待を大きく膨らませた場合は成功のイメージが思い浮かぶ。反対に不安を募らせた場合は失敗のイメージが思い浮かぶ。向かうベクトルが異なると言った違いだけで想像の中での結果は大きく変化する。

例えば何らかの病気で闘病している時に希望を持って自分の病状が好転するイメージを頭に思い浮かべて治療した場合、回復に向けて病状が好転することがあるらしい。反対に負のイメージを頭に思い浮かべた場合、病気の回復も遅れ、時には悪化することもあるらしい。

好きな女の子に告白するときも成功するイメージを持ってシュミレーションした場合、告白と同時にチューしたりもなくはない。反対に失敗するイメージを持ってシュミレーションした場合、警察沙汰にもなり兼ねない結末を迎える。

これは単にマイナス思考な人は失敗のイマジネーションしかできないと言った訳でもない。僕は日替わりで救いようのないくらいのマイナス思考に陥ることが多々あるが、沈んだときこそイマジネーションの中では成功した姿を思い浮かべることがよくある。現実とギャップのある想像は「妄想」と言った言葉で表現されるが、まさにそれである。おそらくこれは人間の防衛本能が働くせいだと思われ、世知辛い世の中から逃避するときに起こる現象だと思っている。

いや。書いてみたもののそんな難しいものではない。僕の場合は、単に能天気なだけなのかも知れない。

しかし、前述の通りイマジネーションで成功した姿を思い浮かべて行動することにより結果が良いものになるケースもある。そう考えると沈んでいるときこそ成功した姿を思い浮かべるのは最低限、必要な努力と言えよう。

僕は現在、沈んでいる。否。抜けている。

他でもない。頭髪のことだ。

部屋の中には抜け毛、と言うか散発した?ってくらいの髪の毛があちらこちらに落ちている。食事にもそこそこ気を使っている。生活習慣にもそこそこ気を使っている。洗髪にはなかなか神経質に気を使っている。頭皮への育毛剤の散布は毎日の必須行事だ。

なのにか?それだのにか?ハゲると言うんですか?殺生ではないですか?21世紀になったと言うのに人間は、いや、僕はまだ髪の毛の量のことなどで悩まなければならないのですか?カツラとかケチくさいこと言わずにゴボっと髪の毛が増えないもんか?ほんじゃまか?

いろんなことに気を使うのも大事だが、僕は一つ大きなことを見落としていた。

そう。イマジネーションです。

髪が「ボッ!」っと生えてくるイマジネーションをするのを忘れてました。もうね、「ボッ!ボッ!」っと生えてくるイメージを思い浮かべることに必死ですよ。イマジネーションが強烈過ぎて現実まで毛が飛び出してきやしないかハラハラドキドキ、すなわちハラドキですよ。ようわからんけど。

そんな感じでイマジネーションで髪を生やしてみようと思っていますね。イマジネーションって言うか「ボッ!」って声が出てるもんね。肉声ですね。想像の中の僕は耳毛なんかすごいことになってるもんね。あのね、あのね、あのねのね。

まぁ、結局何が言いたいかと言うと、想像力なんて何の役にも立たないってこってす。現実逃避したい場合はこの上ない味方になってくれるんですが、戦わないと!現実と!ってこってす。

そんなこと言いながらも「ボッ!」って言いながらイマジネーションを膨らましています。想像の中にはカッパや落ち武者が出てくるので笑える。

やっぱ笑えない。

イマジネーションと言うのは非常に大きな武器であり防具である。

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2008年9月 6日 (土)

良かれ

良かれと思ってやったことが全く役に立たないことだってある。それどころか迷惑を掛けてしまうこともある。

だけど、「良かれ!」と思ってやったんだ。それだけはわかっておくれよ。

人は何でも自分の物差しで物事を計ってしまいがちだ。自分の中の常識が他の人達にとっても常識であり、通用することだと思い込んでいる部分がある。

"普通"と呼ばれる枠の中に入っている平凡な自分に安心する部分と、"普通"の枠に納まらない自分の個性の部分に対して何やら優越感や劣等感を感じる。そして自分の中の"普通"の枠が世間一般の常識と近ければ万人にとって通用するものだと思い込んでいるところがあるのだ。

善意とは、世間一般の"良い"とされる枠の中に納まっていることを他に向け発信する行為だと思われる。自分の個性の部分でなく平凡の部分の物差しで計るべきなのだが、稀に個性の部分で善意を行ってしまう人がいる。しかしそれは紛れも無く純真な善意であり気持ちとしては有難く感じるものだ。

茹だるような暑い夏。僕はいつものように通いつめた喫茶店で昼食を取る。数年前、職場が変わる前までは毎日のように通いつめ曜日毎に決められた日替わりのランチを注文する。毎曜日、同じメニューで少々飽きてはきてはいたが、僕は頑なに日替わりランチを頼んだ。他にもメニューはあるのだが、店の意向としてはランチを少しでも消化させたいものがあるのだろうと思っての行為だ。僕なりの善意だ

そのうち店のおばちゃんとも仲良くなり、店が暇な時などには軽口を聴くようになった。どうやら僕はおばちゃんに好かれたらしく僕のプライベートな部分にも立ち入ってくるようになった。やれ結婚はしているのか、やれ彼女はいるのか、やれ晩御飯はちゃんと食べているのか。そう言った具合にいろんな話をするようになった。

そして、客が少ない日には食後のコーヒーをサービスで出してくれるようになった。本来ならば食後のコーヒーは200円なのだが僕にはサービスで出してくれた。

おばちゃんの心の温かさが伝わってくるような熱いコーヒーだ。

そう。茹だるような暑い日に・・・

僕は汗だくになりながら食後の暑いコーヒーを飲み干した。

おばちゃんのその気持ちは、紛れもなく善意だ。何も見返りを期待することのない純真な気持ち。僕にとって「良かれ!」と思ってやってくれた行為だ。

僕は汗だくだった。

そう。それは紛れも無く善意だった。

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